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琥珀色の傘を君に ―復讐の果ての、ありふれた奇跡―  作者: 久遠 睦


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2/15

蛇の道は蛇、復讐の胎動

1. 牙を研ぐ場所


一ノ瀬蓮の洋館は、都会の喧騒から切り離された静寂の中にあった。 高い天井まで届く書棚には、革表紙の古書が隙間なく並んでいる。窓から差し込む午後の光は、埃一つない床に長い影を落としていた。


「座りなさい。佐藤麻衣さん」 一ノ瀬の声は、低いがよく響く。彼は淹れたてのコーヒーを私の前に置いた。湯気と共に立ち上る香りは、極度の緊張で固まっていた私の肺を、少しだけ解きほぐした。


「昨日も言いましたが、私はあなたに知識と手段を提供します。しかし、実行するのはあなた自身だ。自らの手を汚さずに、高みの見物で相手が自滅するのを待つ……そんな甘い考えは捨ててください」 「わかっています」 私はコーヒーカップを両手で包み込み、熱を確かめた。 「あいつらと同じ……いえ、あいつら以上に狡猾にならなければ、奪われたものを取り戻すことなんてできない」


一ノ瀬は満足そうに目を細めると、一冊の薄いファイルを机に置いた。そこには、私のいた会社の組織図、九条課長の経歴、そして莉奈のSNSのキャプチャが整理されていた。 「敵を知ることから始めましょう。まず、主犯の九条健一。彼は典型的な自己愛性パーソナリティの持ち主です。『仕事ができ、家庭を愛する完璧な自分』という虚像を維持することに命をかけている。この虚像が剥がれることを、彼は死ぬよりも恐れている」


一ノ瀬は次に、莉奈の写真を指先で叩いた。 「共犯の佐々木莉奈。彼女は若さと可愛さを武器に、強者に取り入る寄生型の人間だ。しかし、彼女が本当に求めているのは九条への愛ではない。九条という『価値ある男』を独占しているという優越感です。そして何より、あなたのような『真面目で地味な存在』を蹴落とすことで、自分の優位性を確認したいという歪んだ承認欲求がある」


私は、莉奈の屈託のない笑顔の写真を睨みつけた。 あの日、私を身代わりにして泣き真似をしていた彼女の顔が、鮮明に蘇る。 「……どうすれば、あいつらを一番苦しめられますか?」


「一番の苦痛とは、自分が最も価値を置いているものを、最も信じていた相手に破壊されることです」 一ノ瀬は冷ややかに微笑んだ。 「九条には『社会的な地位と家庭』を。莉奈には『自分は特別であるという幻想』を。これらを、互いの手で壊し合わせる。それが私の提案するシナリオです」


2. 潜伏と観察


復讐の第一歩は、私の「死」を演出することだった。 会社を辞め、連絡を絶ち、社内の人間にとって佐藤麻衣という存在が「終わった人間」として記憶の隅に追いやられるのを待つ。


「一週間、ここで生活しながら、あなたには徹底的に化けてもらいます」 一ノ瀬の指導は過酷だった。 まずは外見の変貌だ。地味なリクルートスーツのような事務服を捨て、一ノ瀬が選んだのは、上質だが主張しすぎない、洗練された大人の女性のワードローブ。メイクも、これまでの「敵を作らないための武装」から、「相手の深層心理に踏み込むための武器」へと変えさせられた。


そして、私が最も苦労したのは、立ち居振る舞いの矯正だった。 「猫背はやめなさい。被害者の顔をしているうちは、獲物は釣れない。あなたは今、彼らの運命を握る神にでもなったつもりでいなさい」 一ノ瀬の言葉は時に辛辣だったが、それによって私の中の「佐藤麻衣」は、少しずつ別の何かに作り変えられていった。


その間、一ノ瀬は独自のネットワークを使い、九条と莉奈の動向を逐一報告してきた。 「九条は、あなたが去った後、部内での信頼をさらに強固にしています。『不倫騒動の被害者』として同情を集め、仕事も順調だ。一方、莉奈はあなたの仕事を引き継ぎましたが、ミスが目立っている。しかし、九条がすべてをフォローしているおかげで、彼女もまたお気楽な立場を謳歌しています」


それを聞き、私は奥歯を噛み締めた。 私が絶望に沈んでいた間に、あいつらは私の屍を乗り越えて、さらに良い思いをしていたのだ。 「……そろそろ、いいですか」 「ええ。まずは、九条の『完璧な仮面』に、小さな、けれど消えないヒビを入れましょう」


3. 最初の一刺し


一ノ瀬が用意したのは、追跡不可能な回線を使った一通のメールだった。 送信先は、九条課長の妻、美智子。 彼女は、会社に乗り込んできて私を平手打ちした、あのプライドの高い女性だ。


『九条健一様の奥様へ。 先日、会社での一件、誠にご愁傷様でした。 しかし、奥様は一つだけ大きな間違いをされています。 ご主人が本当に愛しているのは、あの日去った女性ではありません。 今もご主人の隣で、奥様をあざ笑いながら仕事をしている女性です。 証拠が欲しければ、明日の夜、この場所へお越しください』


メールには、都内の高級ホテルのラウンジと、時間が記されていた。 そこは九条が「接待」と称して、莉奈と頻繁に密会に使っている場所だ。一ノ瀬が莉奈のスマートフォンのGPSをハッキングして突き止めた事実だった。


「これだけで、彼女は動くでしょうか?」 「美智子という女性は、一度疑念を抱けば、それを確かめずにはいられない性格です。あの日、彼女が会社に乗り込んできたのは正義感からではない。自分の所有物が汚されたことへの怒りだ。その怒りの矛先を、正しい方向へ修正してあげるだけです」


翌日の夜。私は一ノ瀬と共に、ホテルのラウンジが見渡せる位置に車を止めた。 私は、新しく手に入れたダークネイビーのドレスに身を包み、度のない伊達眼鏡をかけていた。一ノ瀬の言う通り、今の私を見ても、あの「冴えない事務員の佐藤さん」だと思う者はいないだろう。


ラウンジの奥の席に、九条と莉奈がいた。 莉奈は、九条から買ってもらったのであろう高価なアクセサリーを身につけ、上目遣いで彼に甘えている。九条は、鼻の下を伸ばし、愛妻家という看板を脱ぎ捨てた下卑た顔で彼女の肩を抱いていた。


「……あ、来ましたね」 一ノ瀬が低く呟いた。 入り口に、九条美智子の姿があった。彼女は周囲の目を気にしながらも、獲物を探す鷹のような鋭い視線で店内を見渡している。


そして、彼女の視線が、奥の席で睦まじく寄り添う二人を捉えた。


「……健一さん?」 美智子の震える声が、静かなラウンジに響いた。 九条の顔から、一瞬にして血の気が引くのが分かった。莉奈は、驚いて九条の腕を振りほどこうとしたが、時すでに遅し。


「これは、どういうこと……? 接待じゃなかったの?」 「美智子、これは……その、誤解だ! 彼女は、その、仕事の相談を……」 九条の必死の弁解。しかし、美智子の視線は、莉奈の首元で輝くネックレスに注がれていた。 「……そのネックレス。この前、あなたが私に『仕事が忙しくて買いに行けないから、これで何か好きなものを買え』って渡した現金と同じ金額よね。まさか、こっちが本命だったってこと?」


美智子の怒りは、あの日私に向けられたものとは比較にならないほど激しいものだった。 「この泥棒猫! 嘘つき! 二人とも、タダで済むと思わないで!」


ホテルのラウンジという社交の場。九条が最も守りたかった「品位」と「面目」が、妻の叫び声によって粉々に砕け散っていく。 私たちは、その様子を冷ややかに見つめていた。


「……気分はどうですか、麻衣さん」 一ノ瀬が、私に問いかけた。 「……少しだけ、胸が空きました。でも、まだ足りない。これは、彼らが私にしたことの、百分の一にも満たない」


私の声は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。 一ノ瀬は、わずかに口角を上げると、車を発進させた。


4. 欲望の罠


九条家は、あの一件以来、修羅場と化しているようだった。 一ノ瀬の調査によれば、美智子は離婚をチラつかせながら、九条の全資産を管理下に置こうとしているという。 一方、莉奈は会社で「課長を誘惑して家庭を壊そうとした悪女」として、かつての私と同じような視線にさらされ始めていた。


しかし、莉奈は私とは違った。 彼女は、窮地に陥るほど、自分の価値を証明しようと足掻く。 「彼女は今、九条への依存を強める一方で、彼が自分を守ってくれないことに苛立ちを感じている。そこに、別の『甘い誘い』を投げ込みます」


一ノ瀬は、莉奈に一通のDMを送った。 それは、ある新進気鋭の若手実業家を装ったアカウントからのものだった。 『あなたのSNSのセンスに注目しています。今度、新しいブランドの立ち上げに参加しませんか? 九条さんという方と一緒にいるのは、あなたの才能の持ち腐れだ』


莉奈は、すぐにその誘いに乗った。 彼女にとって、九条はもはや「沈みゆく泥舟」でしかなかった。美智子の監視下にある九条には、もはや彼女に貢ぐ金も、彼女を守る権力も残っていない。


「彼女に、九条を裏切らせる準備をさせます。九条が裏で行っている不透明な経理処理……その証拠を、彼女に持ち出させるんです。自分の未来を切り開くためのチケットだと信じ込ませてね」


一ノ瀬の計画は、一分の隙もなかった。 彼は、人間の欲望と恐怖を天秤にかけ、最も残酷な結果が出るように重りを調整していく。


「……一ノ瀬さん」 私は、窓の外を流れる夜景を見ながら尋ねた。 「あなたは、どうして私を助けるんですか? 『歪んだものが正されるのが趣味』だなんて、本当の理由じゃないでしょう?」


一ノ瀬は、ハンドルを握ったまま、しばらく沈黙した。 「……あなたは、かつての私に似ている。ただ、それだけですよ」 「似ている……?」 「信じていたものに裏切られ、雨の中に放り出された。その時、私には傘を差し出してくれる人間がいなかった。だから、今の自分を作った。……それだけのことだ」


彼の横顔に、一瞬だけ、深い孤独の影が落ちたような気がした。 けれど、彼が再び口を開いたとき、その声は元の、冷徹な一ノ瀬蓮に戻っていた。


「さあ、麻衣さん。復讐の駒は揃いました。次はいよいよ、会社そのものを揺さぶります。準備はいいですか?」


「……はい」


私は、強く頷いた。 私の中の「普通の会社員」だった佐藤麻衣は、もう死んだ。 今ここにいるのは、奪われたすべてを、倍にして返しに行く一人の女だ。


5. 契約の重み


その夜、洋館に戻った私に、一ノ瀬は一冊の手帳を渡した。 「明日から、例の報酬の支払いをお願いします」 「……病院ですね」 私は手帳を受け取った。そこには、ある大学病院の住所と、一人の男性の名前が記されていた。


高木惣一郎たかぎ・そういちろう


「彼は、かつて政財界に大きな影響力を持っていた老人です。今は不治の病に侵され、特別病棟で死を待つ身だ。彼の話し相手になり、彼の最期を看取る。それが、私の提示した条件です」


私は、一ノ瀬の目をじっと見つめた。 「……なぜ、私なんですか? あなたの知り合いなら、もっと他にふさわしい人がいるはずでしょう」 「彼が求めているのは、同情でも介護でもない。……『生』の執着を知る人間の言葉だ。今のあなたなら、彼を退屈させないはずだ」


私は、手帳を胸に抱いた。 復讐という甘美な毒に酔いしれる一方で、私はこの契約の重さを感じ始めていた。 一ノ瀬蓮という男。彼が私に差し出した傘は、単なる善意ではない。 それは、彼と共に地獄を歩むための、招待状だったのだ。


「明日、病院へ行ってきます」 「ええ。……その前に、九条から一通の連絡が入るはずです。彼があなたに泣きついてきたとき、どう答えるべきか、よく考えておきなさい」


一ノ瀬はそう言うと、闇に溶けるように書斎へと消えていった。


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