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琥珀色の傘を君に ―復讐の果ての、ありふれた奇跡―  作者: 久遠 睦


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灰色の雨と、差し出された黒い傘

1. 完璧な仮面の裏側


二十八歳の秋、私の世界は音を立てて崩れ去った。


私の名前は、佐藤麻衣さとう・まい。中堅の商社で事務職として働く、どこにでもいる「普通の会社員」だ。派手な趣味があるわけでもなく、仕事は人並みにこなし、週末は録り溜めたドラマを見て過ごす。そんな平穏な、けれど確かな日常が、ある夜を境にどろどろとした泥沼へと変わっていった。


その予兆は、残業で遅くなった金曜日のオフィスにあった。 「……あれ、九条課長、まだ残ってたんだ」 給湯室へ向かおうとした私の耳に、誰もいないはずの応接室から微かな声が届いた。 九条健一。私の所属する部署の課長で、三十八歳。端正な顔立ちに、仕立てのいいスーツ。仕事の腕は一級品で、何より「愛妻家」として社内で有名だった。デスクにはいつも奥さんと娘さんの写真が飾られ、飲み会でも「妻の料理が一番だから」と早々に席を立つ。そんな彼に、女子社員たちは「あんな旦那さんが欲しい」と溜息をついていた。


しかし、半開きになったドアの隙間から見えたのは、私が知る「完璧な上司」の姿ではなかった。 「……ダメですよ、課長。ここでそんなこと」 甘ったるい声の主は、私の二歳年下の後輩、佐々木莉奈だった。 「莉奈……君が可愛すぎるのが悪いんだ」 九条課長の、聞いたこともないような粘ついた声。応接室のソファで、二人の影が重なり合っている。窓の外では都会の夜景が輝いているというのに、その空間だけがひどく不潔で、湿り気を帯びているように感じられた。


私は息を殺し、足音を立てないようにその場を離れた。心臓が早鐘を打つ。 (嘘でしょう……あの課長が?) 衝撃だった。けれど、それは私には関係のないことだ。見なかったことにしよう。そう自分に言い聞かせた。しかし、一度「真実」を知ってしまうと、日常のあらゆる場面で違和感が顔を出す。 昼休みに莉奈が新しいブランドバッグを自慢しているとき。九条課長が愛妻家エピソードを披露するたびに莉奈と一瞬だけ視線を交わすとき。そのたびに、私の胃の奥には酸っぱいものが込み上げた。


その後も、私は何度か「現場」を目撃してしまった。 終業後の資料室、非常階段の踊り場。彼らはスリルを楽しんでいるのか、社内という至近距離で欲望を貪り続けていた。そのたびに私は目を逸らし、透明人間になったつもりでその場をやり過ごした。


それが、私の最大の過ちだったのだ。


2. 突然の崩壊

二週間後の月曜日。午後のオフィスに、その女性は突如として現れた。 上品だがどこか険のある、紺色のセットアップを着た女性。彼女が九条課長のデスクへ向かうのではなく、まっすぐに私の席へと歩いてきたとき、嫌な予感が背筋を走った。


「あなたが、佐藤麻衣さん?」


顔を上げた瞬間、視界が火花を散らした。 パァン、という乾いた音がオフィスに響き渡る。右頬が熱く痺れ、私は椅子から転げ落ちそうになった。 「……え?」 何が起きたのかわからなかった。周囲のタイピング音が止まり、静寂が支配する。 「この、泥棒猫! 不倫女!」 女性――九条課長の妻は、狂ったように叫んだ。彼女の手には、何十枚ものプリントアウトされた紙が握られていた。 「主人が、あなたにそそのかされたって白状したわ。これを見なさいよ!」


投げつけられた紙を、震える手で拾い上げる。 それはLINEのトーク画面のキャプチャだった。 『麻衣:課長、奥さんと別れて。早く私だけのものになって。』 『健一:わかってる。あんな女とはもう限界だ。麻衣、愛してるよ。』 『麻衣:昨日のホテル、最高でしたね。また明日、会社で……』


頭の中が真っ白になった。 そこに表示されているアイコンは、間違いなく私のものだ。名前も「麻衣」。けれど、こんなやり取り、私は一度だってしたことがない。 「……違います。これは私じゃありません!」 私は叫んだ。視線を巡らせると、少し離れた席で莉奈が怯えたような顔をして震えていた。その瞳の奥に、嘲笑の色が混じっているのを私は見逃さなかった。 (あいつだ……!) 「私じゃなくて、後輩の佐々木さんです! 私、見たんです、二人が応接室で……!」 「見苦しいわね!」 奥さんは再び手を振り上げた。それを止めたのは、騒ぎを聞きつけて出てきた部長だった。


「ひとまず、場所を変えよう」


会議室に連行された私を待っていたのは、地獄のような時間だった。 九条課長は、うなだれたまま「佐藤さんに誘惑されて断れなかった」と被害者を装った。莉奈は「佐藤さんが課長のことが好きだって相談されてました。まさか本当に不倫してるなんて……」と涙ながらに嘘を重ねた。


「佐藤君、君のLINEのアイコンも名前も一致している。これだけの証拠があって、まだ言い逃れをするのか?」 部長の冷ややかな声。信じられないことに、莉奈は私の名前とアイコンを完全にコピーしたアカウントを作成し、それを使って九条とやり取りをしていたのだ。あるいは、九条自身もグルだったのかもしれない。不倫がバレたとき、一番都合のいい「生贄」として、目立たず、反論しなさそうな私が選ばれたのだ。


その日のうちに、噂は会社中に広まった。 『大人しそうな顔して、上司を寝取った肉食女子』 『奥さんに会社でビンタされた汚物』 昨日までランチを食べていた同僚たちは、私と目が合うと露骨に避け、クスクスと笑いながら耳打ちをした。私のデスクには「不倫女、消えろ」と書かれた付箋が貼られた。


味方は、一人もいなかった。


三日後、部長に呼び出された。 「佐藤君、このまま君がここに居続けるのは、会社にとっても君にとっても良くない。……自主退職という形にするから、明日までに退職届を出しなさい」 「……私がやっていないと言っても、信じてくれないんですか?」 「証拠がすべてだ」


部長は一度も私の目を見なかった。 課長は「心の傷を癒やす」という名目で一週間の特別休暇を取り、莉奈は何事もなかったかのように私の席の横を通り過ぎる。 私は、奪われたのだ。 私の平穏な日常も、積み上げてきた信用も、未来も。


3. 雨の邂逅

会社を出ると、空は私の心を映したような濁った灰色だった。 やがて、ぽつり、ぽつりと冷たい粒が落ちてくる。傘を持っていないことに気づいたが、どうでもよかった。 (どうして、私なの?) 何も悪いことはしていない。ただ、真面目に生きてきただけだ。それなのに、あんな嘘つきたちが笑って過ごし、私がすべてを失って放り出される。


雨脚は強くなり、私のブラウスを、スカートを、容赦なく濡らしていく。 私は駅へ向かう気力もなく、近くの公園のベンチに座り込んだ。 頬を伝うのが雨なのか涙なのかもわからない。震えが止まらなかった。絶望という言葉の本当の意味を、私はこの時初めて知った。 「……このまま、全部流れてしまえばいいのに」 消えてしまいたい。私の存在ごと、この雨が洗い流してくれたら。


その時だった。


頭上に降り注いでいた雨が、ふっと止んだ。 代わりに視界に入ってきたのは、漆黒の傘の布地。 「……そんなところで濡れていると、風邪を引きますよ」


低く、けれど氷のように冷たく、それでいて不思議と心地よい響きを持った声。 ゆっくりと顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。 年齢は三十代半ばくらいだろうか。整った顔立ちだが、その瞳には感情の温度が全く感じられない。深い闇を湛えたような、吸い込まれそうな黒い目。 彼は無言で私に傘を差し出し、自分は雨に濡れるのも厭わずに隣に立った。


「……何、ですか」 私の声は掠れていた。 「泣きそうな顔をしていたので。……いえ、もう泣いているのか」 彼は私の隣に静かに腰を下ろした。 普段の私なら、見知らぬ男に声をかけられれば警戒して逃げ出しただろう。けれど、今の私にはそんな気力すら残っていなかった。それに、彼の纏う空気は、世間の悪意とは全く違う異質なものに思えた。


「聞いて、もらえますか」 気づけば、私は話し始めていた。 会社で起きたこと、冤罪を着せられたこと、信じていた場所から追い出されたこと。 見ず知らずの相手だからこそ、溜まっていた泥のような感情が溢れ出した。声をつまらせ、嗚咽を漏らしながら、私は醜くすべてを吐き出した。


彼は、一切口を挟まなかった。 ただ、雨音に混じって私の言葉をすべて受け止めていた。 話し終えたとき、雨は小降りになっていた。私は冷え切った体を抱え、深く項垂れた。


「……そうですか。それは、酷い話だ」 彼はそう短く言うと、立ち上がった。 「今日はもう帰りなさい。温かくして休むんだ。……そして、明日。もしあなたが、まだ『その先』を望むなら、ここを訪ねてください」


彼はポケットから一枚の名刺を取り出し、私の手の中に握らせた。 上質な紙の感触。そこには、名前と住所、そして小さな紋章のようなロゴだけが記されていた。


『一ノいちのせ れん


彼が去った後、私は名刺を強く握りしめた。 濡れた服が肌に張り付いて冷たい。けれど、手のひらの中にある名刺だけが、微かな熱を持っているように感じられた。


4. 契約の条件

翌日、私は会社を休んだ。どうせもう、あそこに私の席はない。 鏡を見ると、目の下には酷い隈ができ、顔色は土色だった。けれど、心の中には昨日までなかった「黒い火」が灯っていた。


名刺に書かれた住所は、都心の喧騒から少し離れた場所にある、古びた、けれど手入れの行き届いた洋館だった。 重厚なドアを叩くと、昨日と同じ無表情な一ノ瀬が姿を現した。 「……来たんですね。どうぞ」


案内された部屋は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。 彼は革張りのソファに座るよう促し、温かい紅茶を淹れてくれた。 「さて、佐藤麻衣さん。単刀直入に伺います。あなたは、どうしたいですか?」 私はカップを持つ手に力を込めた。 「……復讐したいです」 声が震えた。けれど、それは恐怖ではなく、怒りの震えだった。 「後輩の莉奈も、九条課長も、私を使い捨てたあの会社も。あいつらが笑って過ごしていることが、許せない。私と同じ……いえ、それ以上の地獄に叩き落としたい」


言い切った後、私は自嘲気味に笑った。 「でも、私には何もない。法律の知識も、相手を追い詰めるスキルも、裁判を戦うお金も。ただの会社員にできることなんて、何もないんです」


一ノ瀬は、組んだ足の上に顎を乗せ、じっと私を見つめた。 「知識も、スキルも、金も。それらはすべて私が提供しましょう。私には、その用意がある」 「……どうして? あなたに何のメリットがあるんですか」 「メリット、ですか。そうですね……。私は、歪んだものが正される瞬間を見るのが趣味なんです」 彼は少しだけ口角を上げた。それは微笑というよりは、獲物を狙う獣のような鋭い笑みだった。


「ただし、条件があります。私は慈善事業家ではない」 「……お金ですか?」 「いいえ。成功報酬として、一ヶ月間、私が指定する病院へ通ってください。そこで、ある患者の話し相手になってほしい。それが、私への支払いです」


病院。話し相手。 あまりにも奇妙な要求に、私は戸惑った。 「それだけで、いいんですか?」 「ええ。それだけです。……承諾していただけますか?」


私は一ノ瀬の黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。 もう、失うものなんて何一つない。 この男が死神であれ、悪魔であれ、今の私には彼だけが唯一の救いだった。


「……お願いします。力を貸してください」


「契約成立です、麻衣さん」


一ノ瀬は立ち上がり、棚から一冊の厚いファイルを取り出した。 「さあ、始めましょうか。徹底的に、かつ残酷に。彼らが二度と日の光を拝めないほどの、壮大な復讐を」


窓の外では、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。 けれど、私の心の中には、もっと深く、もっと濃い、真夜中のような闇が広がっていた。 それは、私を絶望させるための闇ではない。 奴らを飲み込み、粉々に砕くための、復讐という名の闇だ。


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