贖罪の庭、残響する過去
1. 柔らかな光の中で
新しい職場である「野上デザイン事務所」での日々は、かつての私がいた巨大な組織とは正反対の、驚くほど平穏で、それでいて密度の濃いものだった。
所長の野上さんは五十代の快活な女性で、元は大手広告代理店のトップクリエイターだったという。「嘘のない仕事をしたい」と独立した彼女の周りには、同じ志を持つ若いスタッフたちが集まっていた。 「麻衣さん、この見積書、チェックお願いね。それから……顔色、良くなったわね」 野上さんが淹れてくれたコーヒーの香りが、小さなオフィスに満ちる。 「ありがとうございます。……ここに来られて、本当に良かったです」
私は心からそう答えた。 ここでは誰も私を「不倫女」とは呼ばないし、私の背後でヒソヒソと囁く者もいない。私の仕事ぶりを正当に評価し、ミスをすれば叱ってくれ、成功すれば共に喜んでくれる仲間がいる。あの日、雨の中で絶望していた私が、これほど早く「人間の温もり」を取り戻せるとは思ってもみなかった。
けれど、私の心の中には、まだ「一ノ瀬蓮」という男の存在が、消えない影のように居座っていた。
週に二回、私は定時で仕事を終えると、一ノ瀬の指定した大学病院へ向かう。 それは「成功報酬」としての義務だったが、今の私にとって、それは義務以上の意味を持ち始めていた。
2. 怪物の正体
「……今日もいい天気でしたね、高木さん」 特別病棟301号室。私はいつものように高木惣一郎の枕元に座り、その日の出来事を話していた。 高木は以前よりも少し呼吸が浅くなっているように見えたが、その瞳に宿る知性の光は、翳ることを知らない。
「……そうか。野上君のところは、相変わらず騒がしいようだな」 高木は、私の新しい職場の話を好んで聞いた。 「彼女を知っているんですか?」 「昔な……。私がまだ、この国の膿を絞り出そうと奔走していた頃、彼女の父親に助けられたことがある。……縁というのは、不思議なものだ」
高木は窓の外を見つめ、遠い記憶を辿るように目を細めた。 「麻衣さん。君は、一ノ瀬君の本当の姿を知りたいか?」 唐突な問いに、私は息を呑んだ。 「……はい。彼は、私を助けてくれました。でも、彼の過去については何も教えてくれません。なぜあんなにも冷酷に、そして完璧に復讐を成し遂げられるのか……」
高木は、ゆっくりと口を開いた。 「……彼はね、かつて『検察の若き天才』と呼ばれていた男だよ」 「検察官……一ノ瀬さんが?」 想像もつかなかった。あの謎めいた、どこか法を超越したような男が、かつては法の番人だったなんて。
「十年前だ。彼はある大規模な政治献金疑惑を追っていた。その背後には、今の政権をも揺るがす巨大な闇があった。……彼は正義を信じ、証拠を積み上げ、あと一歩で主犯を追い詰めるところまで行った。……だが、そこで『裏切り』に遭ったのだ」
高木の声が、苦い後悔の色を帯びる。 「彼の最も信頼していた上司が、相手側に寝返った。一ノ瀬君は逆に証拠捏造の罪を着せられ、職を追われ、社会的に抹殺された。……それだけではない。彼には婚約者がいた。将来を誓い合った女性だ。彼女もまた、彼を追い詰めるための『材料』として利用され……自ら命を絶った」
私は、言葉を失った。 心臓が締め付けられるような衝撃が走る。 あの日、雨の中で一ノ瀬が言った言葉。 『私には傘を差し出してくれる人間がいなかった』 その言葉の裏に隠されていた、絶望の深さをようやく知った。
「彼は、法では裁けない悪があることを知った。そして、法を守る者が真っ先に裏切ることもね。……それ以来、彼は自ら『怪物』になることを選んだ。法の外側から、歪んだ世界を正すために。……だがな、麻衣さん。彼は君を助けることで、かつての自分……まだ正義を信じていた頃の自分を、救おうとしているのかもしれんよ」
高木の枯れた手が、私の手を握った。 「彼は、君には自分と同じ『怪物』になってほしくなかったのだ。だから、復讐の最後の一手……部長を裁く手を、君から奪った。……あれは、彼の精一杯の慈愛だったのだよ」
涙が、私の頬を伝った。 冷酷な復讐の代行者だと思っていた男の、あまりにも深く、哀しい孤独。 私は一ノ瀬に何と言えばいいのか、わからなくなった。
3. 残響:佐々木莉奈の末路
病院を出て、夕暮れの街を歩いていると、不意に視界の隅で「見覚えのある色」が動いた。 派手なピンクのコート。少し乱れた巻き髪。 駅前の繁華街の入り口で、通行人にチラシを配っている女性がいた。
私は足を止めた。 ……佐々木莉奈だった。
かつての彼女の、あの輝くような「自分への自信」は、もうどこにもなかった。 厚塗りのメイクでも隠しきれない肌の荒れと、疲れ切った表情。 会社を諭旨解雇され、九条の横領への加担も疑われ、再就職先も見つからなかったのだろう。彼女が今配っているのは、あからさまに怪しげな風俗店のビラだった。
「……あ」 莉奈が私に気づいた。 彼女の瞳に、一瞬だけ、かつて私に向けられた「優越感」が過ったが、すぐにそれは、激しい憎悪と卑屈さに取って代わられた。
「……佐藤、さん」 震える声。 「どうして、あんたが……。あんたのせいよ。あんたがあの男と組んで、私をハメたんでしょう!?」 莉奈はチラシを地面に叩きつけ、私に詰め寄った。 「私はただ、ちょっと贅沢したかっただけ! 課長が私を好きだって言うから、甘えただけじゃない! どうして私だけがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
周囲の通行人が、異様な光景に足を止める。 かつての私なら、彼女の気迫に押され、申し訳なさに身を縮めていただろう。 けれど、今の私は違った。
「莉奈さん」 私は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。 「私は、あなたをハメたりしていません。あなたは、自分の欲望と、他人の人生を軽んじたツケを払っているだけです」 「……何よ、偉そうに!」 「九条課長は、私に『偽証してくれれば金を払う』と言いました。その時、彼はあなたのことも『あいつが勝手にやったことだ』と切り捨てましたよ。……私たちがいたのは、そういう世界だったんです。誰かを踏み台にしなければ生き残れない、汚れた場所だった」
私はバッグから、一枚の封筒を取り出した。 中には、私が一ノ瀬から「再出発の資金」として提示され、一度は断ったお金の一部が入っている。 「これを受け取って。……あの日、あなたが私の名前を騙って九条課長とやり取りをした時、私はすべてを失いました。でも、今の私は、新しい場所で生きています。……あなたも、もう過去に執着するのはやめなさい。そのお金で、故郷に帰るなり、真面目に働く準備をするなりしてください」
莉奈は、呆然として封筒を見つめていた。 「……同情? 私を笑いに来たの?」 「いいえ。……私自身が、前を向くためのケジメです」
私は封筒を彼女の手に押し込み、一度も振り返ることなくその場を去った。 背後で莉奈が泣いているのか、怒鳴っているのか、もう私には関係のないことだった。 彼女を許したわけではない。けれど、彼女への憎しみで私の人生を埋め尽くすことは、もうやめたのだ。
それが、高木さんが言っていた「相手を自分の人生から無意味なものに昇華させる」ということなのだと、少しだけ分かった気がした。
4. 傘を畳む日
その夜、私は久しぶりに一ノ瀬の洋館を訪れた。 鍵は預かっていたが、私はあえてインターホンを鳴らした。 重厚なドアが開くと、そこには相変わらずの、感情を読み取らせない一ノ瀬が立っていた。
「……何の用ですか。病院の報告なら、電話で済むはずですが」 「……お話ししたいことがあって」 私は、迷わずに家の中へ入った。
書斎には、いつものようにチェス盤が置かれていた。 私は、彼の向かい側の椅子に座り、高木さんから聞いた過去のことを、包み隠さずに話した。 一ノ瀬は、私の話を聞いている間、ピクリとも動かなかった。ただ、窓の外を眺めるその横顔に、かすかな痛みが走ったのを私は見逃さなかった。
「……余計なことを、あの老人は」 一ノ瀬の声は、氷のように冷たかった。 「でも、知れて良かったです。なぜあなたが、あんなにも雨の中で震えていた私に、傘を差し出してくれたのか」 私は立ち上がり、彼の側に歩み寄った。 「一ノ瀬さん。……あなたはもう、自分を責める必要はありません。あなたの婚約者だった方も、きっと、あなたがいつまでも闇の中にいることを望んではいないはずです」
「……君に、何がわかる」 一ノ瀬が、私を睨みつけた。その瞳には、今まで隠されていた激しい感情が渦巻いていた。 「正義なんて、砂の城だ。一度崩れれば、二度と元には戻らない。……私は、復讐することでしか、彼女への償いができないんだ」
「いいえ、違います」 私は、彼の手を握った。 あの日、彼が私に差し出してくれた、あの冷たくて、けれど温かかった手を。 「あなたは私を助けてくれました。私が再び笑えるように、道を照らしてくれました。……それは、復讐ではなく、最高の『正義』だったと私は思います」
一ノ瀬は、私の手を見つめ、力なく笑った。 「……麻衣さん。君は本当に、お人好しだ」 「ええ、知っています。……普通の会社員ですから」
一ノ瀬は、ゆっくりと私を抱きしめた。 その腕は、驚くほど震えていた。 孤独な怪物として生きてきた男が、初めて見せた「弱さ」だった。
私たちは、しばらくの間、静寂の中で抱き合っていた。 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 けれど、もう私たちは、傘がなくても大丈夫だ。 心の中に、互いを思いやる灯火を灯したのだから。
5. 旅立ちの予感
翌朝。 私は、病院の高木さんの元へ向かった。 けれど、病室の前には数人の医師と看護師が集まり、不穏な空気が漂っていた。
「……高木さん!」 私が病室へ飛び込むと、高木は静かに眠るように横たわっていた。 モニターの音が、規則正しく響いている。 一ノ瀬が、すでに枕元にいた。
「……夜明け前に、意識を失われました。……最後を、待っておられるようです」 一ノ瀬の声は、穏やかだった。
私は高木の手を握った。 「高木さん……ありがとうございました。私、頑張ります。……あなたの分まで、誠実に生きます」
高木の指が、かすかに動いたような気がした。 そして、彼はゆっくりと、一度だけ深く呼吸をすると、そのまま安らかな眠りについた。
偉大な老人の最期は、驚くほど静かなものだった。 私は涙を堪え、彼への感謝を心の中で繰り返した。
病院の屋上に出ると、雨が上がり、眩しい朝日が差し込んでいた。 世界は、あの日と同じように、何事もなかったかのように動き続けている。 けれど、私の心は、あの日とは決定的に違っていた。
「……麻衣さん。これから、どうしますか」 隣に立つ一ノ瀬が尋ねた。 「……仕事に行きます。締め切りの近いプロジェクトがあるんです」 私は、笑顔で答えた。
「そうですか。……私も、少し旅に出ようと思います。……自分の『傘』を、どこかに置いてくるために」 一ノ瀬の表情は、晴れやかだった。
「……気をつけて。……帰ってきたら、美味しいコーヒーを淹れてくださいね」 「ええ。約束します」
私たちは、屋上のフェンス越しに、広がる街並みを見つめた。 悲しみも、怒りも、すべてはこの街の喧騒の中に溶けていく。 残るのは、私たちが確かにここにいて、互いに助け合い、前を向いて歩き出したという事実だけだ。
私の新しい人生は、今、本当の意味で始まった。 昨日までの自分にさよならを告げ、私は颯爽と、未来へと向かって歩き出した。




