第9話 貿易船の救出作戦
ウェステリアは、しばらく書斎に一人残された。
机の上の手紙を見つめながら、ゆっくりと深呼吸をした。
——ならば、私が動くしかない。
エヴァンスの許可を待っていたら、乗組員たちは見捨てられる。
積み荷も失われる。それだけではない——あの人たちは、ウェステリアが長年ともに働いてきた仲間だ。タンジールの見知らぬ港で、助けを待ちながら日々を過ごしている。
その顔が、一人一人、頭に浮かんだ。
ウェステリアは手紙を手に取り、書斎を後にした。
すべきことは、決まっていた。
その日の夕方、ウェステリアはトーマスを呼んだ。
「スワロー号の出港準備を進めてください。食料と水の積み込み、乗組員の手配、航路の確認——すべて、明後日の朝までに整えてほしいのです」
トーマスは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解したようだった。
「旦那様のご許可は」
「……いただいていません」
トーマスは少し黙ってから、深く頷いた。
「わかりました、奥様。任せてください」
その言葉に、ウェステリアはわずかに表情を和らげた。
「ありがとうございます、トーマス。費用については、私が責任を持ちます」
「奥様」トーマスが、静かに言った。
「あの海の男たちを見捨てるなんて、私にもできません。これは私どもの仕事です」
ウェステリアは、深く息を吸った。
——必ず、連れて帰る。
その決意を胸に、ウェステリアは港への手配を始めた。
** *
翌朝、ウェステリアは夜明けとともに目を覚ました。
昨夜は遅くまで、スワロー号の出港準備の段取りを確認していた。
トーマスが手際よく乗組員を集め、食料と水の積み込みも順調に進んでいるという報告を受けていた。このまま行けば、明朝には出港できる。
――しかし、問題があった。
それはエヴァンスが、このことを知った時だ。
ウェステリアは、それを覚悟の上で動いていた。
おそらくエヴァンスは怒鳴り込んでくるだろう。
しかし乗組員たちが無事に戻ってくれば、結果として商会の損害を最小限に抑えられる。
それを示せば、エヴァンスも最終的には納得するはずだ——そう、ウェステリアは考えていた。
しかし、ウェステリア見通しに反して、エヴァンスは予想よりも早く事態に勘づいた。
***
エヴァンスがそれを知ったのは、昼過ぎのことだった。
エヴァンスは血相を変えて、ウェステリアの待機していた執務室に踏み込んできた。
「スワロー号を動かすつもりか」
「はい」
ウェステリアは、書類から目を上げて答えた。
「アルバトロス号の乗組員を救助するために、明朝出港の手配を進めています」
「俺が駄目だと言っただろう」
「おっしゃいました。ですが、乗組員を見捨てることは私にはできません」
エヴァンスの顔が赤くなった。
「お前は何の権限があって、勝手に船を動かすんだ。あの船は俺のものだぞ」
「存じております」
ウェステリアは、静かに立ち上がった。
「ですから、費用と責任はすべて私が負います。商会の資金は使いません。私の個人資産から出します」
「そういう問題じゃない」
エヴァンスは、声を荒げた。
「俺の許可なく勝手に動くな、と言っているんだ。お前には、夫の言うことが聞けないのか」
「――正確には、私はもう貴方の夫ではありません」
——夫の言うこと。
その言葉が、ウェステリアの胸に引っかかった。
離縁を突きつけておきながら、都合のいい時だけ夫面をする。その矛盾に、怒りよりも先に、深い疲れを感じた。
「エヴァンス様」
ウェステリアは、落ち着いた声で言った。
「あなたとは、正式に離縁をしました。
この商会のことも、もはや私が口を出すことではないかもしれません。
しかし、タンジールで救助を待っている人々は、そのような事情とは無関係です。彼らを助けることは、人として当然のことではないですか」
「綺麗事を言うな」
エヴァンスは吐き捨てた。
「商売というのは、損得だ。感情で動かすものじゃない。あの連中を助けるために、スワロー号を動かす費用と時間がかかる。それが無駄だと言っているんだ」
「では、人の命は損得で計れるとおっしゃるのですか」
「そうじゃない。ただ——」
「計れないはずです」
ウェステリアは、一歩も引かなかった。
「あの船に乗っている人々には、それぞれ家族がいます。待っている人がいます。
あなたの判断一つで、その命が左右される。そのことを、もう一度考えていただけませんか」
エヴァンスは黙った。
しかし沈黙は長くは続かなかった。
「……勝手にしろ。
だが、もし失敗したら、わかっているだろうな」
エヴァンスは、そう言い捨てて出て行った。
***
翌朝、スワロー号は予定通り出港した。
港に見送りに出たウェステリアは、岸壁に立って遠ざかる船影を見つめた。白い帆が風をはらんで膨らみ、船はゆっくりと沖へと向かっていった。
——頼みます。みんなを連れて帰ってきてください。
そう祈りながら、ウェステリアはしばらくそこに立っていた。
***
スワロー号がタンジールから戻ってきたのは、それから数日後のことだった。
アルバトロス号の乗組員たちは、全員無事だった。絹織物の大半も、丁寧に梱包し直されて積み込まれており、品質に大きな損傷はなかった。
港に戻ってきた乗組員たちは、埠頭でウェステリアの姿を見つけるなり、口々に叫んだ。
「奥様!」
ベネットが、日焼けして少し痩せた顔で、しかし元気よくウェステリアの前に進み出た。
「奥様のおかげで助かりました。タンジールでは、もう見捨てられたかと思っていた。まさか迎えが来てくれるとは——」
ベネットは、そこで言葉を詰まらせた。目の端が赤くなっていた。
「無事で何よりです」
ウェステリアは、静かに言った。
「本当に、よかった」
「命の恩人です、奥様は」
周りの船員たちも次々と声をかけてきた。若い船員の中には、目を潤ませている者もいた。
ウェステリアは、一人一人の顔を見ながら頷いた。
胸の奥が、温かいもので満たされていくのを感じた。




