第10話 ウェステリアの故郷
騒動が落ち着くと、ウェステリアはその足で実家のヘンリウッド伯爵邸に帰ってきた。
それは屋敷を出た翌日の夕方だった。
馬車の窓から見える景色が、幼い頃から慣れ親しんだものに変わっていくにつれて、ウェステリアの体から少しずつ力が抜けていった。
緑の丘が続き、小さな川が光を反射し、遠くに領地の村々の煙が見える。何も変わっていない。あの頃のままの故郷だった。
伯爵邸の門をくぐると、使用人が驚いた顔で迎えに出た。
そして父——ヘンリウッド伯爵が、屋敷の玄関先まで自ら出てきた。
家族を心配させまいと、ウェステリアは父に自分の身に起きたことを、直前まで知らせていなかった。
気まずい思いで父を対面すると
しかし父は、ウェステリアの顔を見た瞬間、何かを察したようだった。
荷物が少ないこと、馬車が商会のものではなく乗り合いのものであること、そしてウェステリアの顔に、隠しきれない疲れが滲んでいること。
「ウェステリア」
父は、それだけ言って、娘を抱き寄せた。
ウェステリアは、父の胸の中で、目を閉じた。泣くまいと思った。
しかし、父の温もりに触れた瞬間、こらえていたものが静かに溢れ出た。声は出さなかった。
肩が小さく震えた。
「お父さま…」
「ウェステリア、よく帰ってきたな」
父の声は、穏やかだった。責める言葉も、詮索する言葉もなかった。
ただそれだけで、ウェステリアには十分だった。
***
その夜、夕食の席でウェステリアはこれまでの経緯を話した。
エヴァンスから突然の離縁の申し出があったこと。見知らぬ女との目撃があったこと。
引き継ぎ作業を進める中で、探偵に調査を依頼したこと。
そして、難破した船の乗組員を救助するために独断で船を動かしたこと。
父は、黙って聞いていた。
途中、何度か眉をひそめ、一度だけ手に持ったフォークをテーブルに置いた。
すべてを話し終えた時、父はしばらく沈黙した後、静かに言った。
「エヴァンス殿は、愚かな男だ」
短く、しかしはっきりとした言葉だった。
「お前が八年間、あの商会をどれだけ支えてきたか。父さんにはわかっている。それを、そのような形で追い出すとは」
「父上、私のことはいいのです。
それより——」
「よくない」
父は、珍しく強い口調で言った。
「お前はいつもそうだ。自分のことを後回しにして、周りのために動いて、それで傷ついても黙っている。もう、それはやめなさい」
ウェステリアは、言葉に詰まった。
「……はい」
「証拠を集めているというのは、賢明な判断だ。徹底的にやりなさい。
父さんも、できることは協力する。ヘンリウッドの家として、黙って見ているわけにはいかない」
父の目には、静かな怒りと、揺るぎない愛情が同居していた。
ウェステリアは、胸の奥が温かくなるのを感じながら、深く頷いた。
***
それからしばらく、ウェステリアは実家で穏やかな日々を過ごした。
慌ただしく、心労の絶えなかったこれまでとは打って変わって、実家の時間はゆっくりと流れた。
朝は庭を散歩し、昼は書斎で本を読み、夕方には父と食卓を囲む。
ハミルトン伯爵邸では、いつも何かに追われていた。ここでは、ただ息をしていることができた。
――しかし、何もしないでいられる性分でもなかった。
ウェステリアは実家の書斎を借りて、引き継ぎ書類の見直しや、今後の法的手続きについての整理を続けた。
ハロルドへの連絡も、実家の住所に切り替えてもらった。調査は引き続き進んでいるはずだった。
***
そうして過ごして数日が経ったある朝、庭を散歩しているウェステリアに、父が声をかけてきた。
「そうそう、ウェステリア。一つ伝えておきたいことがあった」
「なんでしょう?」
「しばらく前から、丘の上の邸宅に、ウィンチェスター侯爵が戻ってきているそうだ。お前の幼馴染の、ルーレンス殿だよ」
ウェステリアは、思わず足を止めた。
「……知っています。
依然、町で偶然お会いしました」
「ほう、そうか」
父は少し目を丸くした。
「それは奇遇だな。戦地から戻って家督を継いだと聞いていたが、こちらの領地にも戻ってきたのか。子どもの頃は、よく一緒に遊んでいたものだったな」
「ええ」
ウェステリアは思わず顔をほころばせる。
「立派な侯爵になられたそうだ。父さんも、一度ご挨拶しなければと思っていたところだったのだよ」
ウェステリアは、庭の先に広がる丘の向こうを見た。
その丘を越えた先に、ウィンチェスター侯爵家の領地がある。
幼い頃、あの丘を何度も越えて、二人で遊びに行ったものだった。
「せっかくだから、ウェステリア、おまえも挨拶に行ってみてはどうだ。お前が世話になっているなら、なおさら」
「……そうですね」
ウェステリアは、少し考えてから頷いた。
ルーレンスには、調査の件で協力してもらっている。現状の報告も兼ねて、訪ねてみるのは自然なことだ。
「では、近いうちに伺ってみます」
父は満足そうに頷いて、庭の花壇の方へ歩いていった。
ウェステリアは空を見上げた。初夏の青が、どこまでも広がっていた。




