第11話 ウィンチェスター家のお屋敷
翌日の午後、ウェステリアはウィンチェスター侯爵邸を訪ねることにした。
馬車で丘を越えると、しばらくして巨大な石造りの門が見えてきた。
幼い頃にも何度か訪れたことはあったが、当時の記憶は曖昧なところもあり、もっと気軽に感じていた記憶がある。
今、改めて見ると——その規模に、思わず息を呑んだ。
広大な庭園が広がり、その奥に堂々とした石造りの邸宅がそびえている。
建物の正面には何本もの柱が並び、窓は整然と並んでいた。
手入れの行き届いた庭木が緑の回廊を作り、噴水の水音が遠くまで聞こえてくる。
——これが、ルーレンスが受け継いだ、彼の、この地の領主としての邸宅。
当然わかってはいたが、改めて対峙すると、その格の違いに気が遠くなりそうだった。
侯爵家と伯爵家では、もともと身分の差があるが、幼い頃はそれをあまり意識していなかった。
大人になった今では、さすがに実感せずにはいられなかった。
執事に名を告げると、彼はすぐに奥へ案内してくれた。
通されたのは、広々とした応接室だった。
天井が高く、壁には精緻なタペストリーが掛けられている。暖炉の上には大きな鏡が据えられ、窓の外には庭園が広がっていた。
ウェステリアは、背筋を伸ばして椅子に腰を下ろした。
——気後れしている場合ではない。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
** *
「待たせてしまいすまない」
応接室の扉が開き、ルーレンスが入ってきた。
町で会う時とは少し違う、落ち着いた深緑の上着を着ている。
しかし表情は、あのカフェで向かい合っていた時と変わらず、気負いのない穏やかなものだった。
ウェステリアが思わず感じた緊張が、その顔を見た瞬間に少し和らいだ。
「突然お邪魔してしまい、申し訳ありません。実は実家に戻っておりまして——」
「ハロルドから聞いたよ」
ルーレンスは向かいの椅子に腰を下ろした。
「近々、君の屋敷を訪ねようかと思っていたところだったんだ。
言ってくれれば迎えにやったのに」
ルーレンスは、屈託なく微笑む。
「お気遣いいただいてありがとうございます。家に戻って、私もようやく少し息ができました」
「君のお父上はなんと」
「全力で味方になると言ってくださいました」
ルーレンスは、それを聞いてわずかに目を和らせた。
「それはよかった」
***
話に花を咲かせていると、執事がお茶を運んできた。
艶やかな茶器に注がれた紅茶の香りが、部屋に広がった。
ウェステリアはカップを受け取りながら、改めて室内を見渡した。
落ち着いた色合いで統一された調度品、高い天井から差し込む柔らかな光。
どれも品があり、しかし居心地が悪いほど豪奢というわけでもなかった。
「それにしても……素晴らしいお屋敷ですね」
大昔に屋敷で遊んだ時の記憶は、当に記憶の彼方に消えてしまっていた。
圧巻の光景に、思わずそうふ呟くと
「そうかな?」
ルーレンスは、少し意外そうな顔をした。
「私には、広すぎて持て余しているんだ。
戦地から戻ってきてまだ日が浅いこともあって、なんとなく、まだ自分の家という感じがしていない」
確かに、ルーレンスは家を離れて戦地での生活が長かった。
「たしかに……戦地では、こんな場所で暮らすわけにはいきませんものね」
「他の軍人たちと同様に、粗末なテントに寝泊まりする生活に、自分も慣れきってしまった」
ルーレンスは、どこか懐かしむような目をした。
「不便なことは多かったけれど、ここは何もかもが整いすぎていて、かえって落ち着かないんだ」
「これだけの大きなお屋敷だと、私も落ち着かないかもしれないです」
言われて、私も思わず頷く
「そろそろこの家も、使わないままになっている部屋を片付けたり、手を入れなければならないと思っていたところだったんだ」
ルーレンスは、そう言って改めて室内を見渡した。
「……やることは山積みだ」
ルーレンス自身も、侯爵家の当主として執務やその他周囲の雑務が山積みだった。
それにもかかわらず、こうして何かにつけてウェステリアのことを気にかけてくれている。
私は、感謝してもしきれないという思いだった。
再び短い沈黙の後、
ルーレンスが、静かに顔を上げる。
「ウェステリア、これからのことを聞いておかなければいけない。
ハロルドの調査は続いているが、証拠が揃うまでの間、あなたの身の安全も考えなければならない」
「身の安全、ですか」
「エヴァンスがどう動くか、まだわからない。
今は実家にいるから安心だが、調査が進んで彼が焦り始めた時に、彼が何をするかはわからない」
言われて、ウェステリアは、その言葉の意味を考えた。
エヴァンスは、短絡的な性格だ。
追い詰められた時に何をするか——確かに、予測できない部分はあった。
「……注意します」
「何かあれば、すぐに私に知らせてほしい
君の力になりたいんだ」
ルーレンスの声は、真剣そうな面持ちでウェステリアの顔を覗き込んだ。
彼の心意気が嬉しくて、
ウェステリアは素直に頷いた。
***
その後、話はいつの間にか、昔のことへと移っていった。
「君は覚えているかな」
ルーレンスが、少し表情を明るくした。
「君が屋敷に遊びに来ると、私たちはよく。屋敷内の図書室に直行していた。二人して屋敷内の蔵書を端から読んだりしていた」
「だって、あんなにたくさんの本がある家は、他にありませんでしたから」
「父は君のことをとても感心していたんだ。
若いお嬢さんなのに、博識だとね」
「そうでしたか」
ウェステリアは、少し照れてしまった。
「本好きだなんて、可愛げがないと思ったかもしれません」
「いや、父は喜んでいたよ。
本を読む人間が好きだったから」
ルーレンスの父。
彼が戦地にいる間に亡くなった、と言っていた。
その話題に触れる時、ルーレンスの目にはいつもかすかな翳りが差す。
ウェステリアはそれを見るたびに、何か言葉をかけたいと思いながら、適切な言葉が見つからないでいた。
「……お父上は、どんな方でしたか」
思い切って、聞いてみた。
ルーレンスは少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな目になった。
「私には厳しい人だったよ。しかし、公正だった。誰に対しても、身分に関係なく、同じように接する人で——私はその点に関しては尊敬していた」
「似ていますね、あなたと」
ウェステリアが言うと、ルーレンスは少し目を細めた。
「そうかな?」
「ええ。あなたも、誰に対しても同じように接する。私が今こうして力を借りられているのも、そういうあなただからだと思っています」
本心からそう告げると、
ルーレンスは、少しの間、何も言わなかった。
「……ありがとう」
静かに、しかしどこか感慨深げに、そう言った。
***
しばらく話していると、庭の方角から夕暮れの光が差し込んできた。
「もう、こんな時間だ」
ウェステリアは、窓の外を見て立ち上がった。
「長居してしまいました。そろそろ失礼します」
「家まで送ろう」
いつものウェステリアだったら、丁寧に断って一人で帰ろうとするけれど、彼には気軽に頼れる頼もしさがある。
私は、彼の好意をありがたく受け取った。
「では、お言葉に甘えて」
***
玄関ホールを歩きながら、ウェステリアは改めて、この邸宅の広さを実感した。
廊下が長く、使用人が静かに行き交い、どこかで時計の音が規則正しく響いている。
「またいつでも遊びに来て
私もこの屋敷も、暇を持て余してるから」
振り返えれば、ルーレンスは幼い頃と変わらない、真っ直ぐな目をしてこちらに微笑んでいる。
優しそうな淡褐色その瞳は、幼い頃と変わらない暖かさがある。
「……ありがとうございます」
ウェステリアは、素直にそう言えた。
馬車に乗り込み、門を出た後、ウェステリアはしばらく窓の外を見ていた。夕暮れの中に、侯爵邸の輪郭が遠ざかっていく。
——不思議な人だ。
あれほど格の違う場所にいるのに、あの人の前では、なぜか自分らしくいられる。
ウェステリアは、その感覚の意味を、まだうまく言葉にできなかった。ただ、今日ここを訪ねてよかったと、静かに思った。
馬車は丘を越え、実家への道を進んでいった。




