第6話 ウィンチェスター侯爵
そして十日目の昼過ぎ、ウェステリアは再びハロルド調査事務所を訪ねた。
事務所の扉を開けると、ハロルドはいつもの定位置に座っていた。しかし今日は、向かいの椅子に先客がいた。
背の高い男だった。
深い藍色の上着を着て、こちらに背を向けて座っている。肩幅が広く、姿勢がよい。軍人か、あるいは武人の出だろうかと、ウェステリアは直感的に思った。
「ああ、奥様、いらっしゃい」
ハロルドが立ち上がりかけたその時、椅子の男もこちらを振り返った。
ウェステリアは、息を呑んだ。
男の顔を見た瞬間、記憶の奥底に仕舞い込んでいた何かが、急に引き出された。
彫りの深い顔立ち、薄い色の双眸、わずかに弧を描く口元——子どもの頃の面影が、大人の輪郭の中にはっきりと残っていた。
「……ルーレンス?」
思わず、名前が口をついて出た。
男は一瞬、驚いたように目を見開いた。それからゆっくりと、柔らかく目を細めた。
「ウェステリア。やはり、あなたか」
――ルーレンス・ウィンチェスター
幼い頃、ウェステリアの実家があった地方の、隣の領地を治める公爵家の長男だった。
身分の差はあったが、同じ地方の出身ということもあり、子どもの頃から何かと顔を合わせる機会があった。
ウェステリアより三つ年上で、幼い頃のルーレンスは、いつも少し大人びていた。
口数は多くなかったが、ウェステリアが難しい本を読んでいると
「何を読んでいるの?」
と興味深そうに覗き込んできたり、幼いウェステリア庭先で遊んでいると、一緒に泥だらけになって遊んでくれたりした。
――しかしルーレンスが十五の頃、突然の別れが訪れる。
隣国との戦争が始まった。
彼は、ウィンチェスター公爵家の嫡男として、若くして戦地へ赴くことになった。
あの時の別れが最後で、それきり消息も聞こえなくなっていた。
もう十年以上、音沙汰がなかった。生きているのかさえ、わからなかった。
——それが、こんなところで。
ウェステリアは、しばらくうまく言葉が出なかった。
「……生きていたのね」
やっと絞り出した言葉は、あまりにも素朴だった。しかしルーレンスは、それを聞いて静かに笑った。
「おかげさまで。君の両親へも挨拶に行こうとしていたところだったんだ」
「そうだったのね」
ウェステリアは顔を綻ばせた。
「ところで、君こそ、こんなところで何をしているの?」
その問いに、ウェステリアは少し言葉に詰まった。探偵事務所に来ている理由を、どこから説明すればいいか。
ハロルドが、二人の様子を面白そうに見比べながら口を挟んだ。
「お二人は、お知り合いなのですか?」
「幼馴染です」
ルーレンスが答えた。それから、ウェステリアに向き直った。
「せっかくこうして再会できたんだ
少し話をしていかないか?」
ウェステリアは、ハロルドからの報告を受けた後ルーレンスと近くのカフェで会う約束をして別れた。
ハロルドからの報告は、簡潔だった。
エヴァンスが頻繁に足を運んでいる場所が、二箇所特定できた。一つは商業地区の高級レストラン。
もう一つは、外れにある小さな邸宅だった。その邸宅には、若い女が暮らしており、彼女の名前はルイーゼ・クロス——地方の商人の娘だということが判明した。
「邸宅の家賃は、ハミルトン伯爵の名義で支払われています」
ハロルドがそう付け加えた時、ウェステリアの胸に、冷たいものが落ちた。
エヴァンスが、女のために家を用意していた。それも、ハミルトン伯爵家の、つまりウェステリアが実質的に稼いできた商会の収益から。
「……わかりました」
ウェステリアは、静かに答えた。
怒りが込み上げてくるのを感じたが、それを顔に出すことはしなかった。
「引き続き、調査をお願いします。できれば、二人が一緒にいる場面の記録を」
「承知しました」
***
事務所を出て、ルーレンスに案内されたのは、通りから少し奥まった場所にある小さなカフェだった。
窓際の席に向かい合って座ると、柔らかな午後の光が差し込んできた。
コーヒーが運ばれてくる間、ルーレンスは自分のこれまでの生活をウェステリアに話して聞かせた。
「戦地から戻ったのは、ほんの一月ほど前なんだ。
父が亡くなり、わたしが正式に家督を継ぐことになった。それで、こちらに」
「そうでしたか……。お父上が」
「もう三年前のことです。戦地での生活が長く、私が戻るのが遅くなってしまったから」
「大変な任務でしたね
でも、あなたが無事で本当に良かった」
今度はルーレンスが、コーヒーカップをソーサーに置きながら言った。
「君が探偵事務所で夫の調査を依頼しているとは、正直驚いたよ」
「聞こえていましたか」
「すまない、盗み見聞きをするつもりはなかったんだ」
ウェステリアは少し考えてから、かいつまんで事情を話すことにした。
突然の離縁の申し出、エヴァンスと見知らぬ女の目撃、そして探偵への依頼。
ルーレンスは、口を挟まずに聞いていた。しかしその表情は、話が進むにつれて、徐々に険しくなっていった。
「……それは、酷い話だな」
一通り聞き終えて、ルーレンスは静かに言った。怒りを抑えているような、低い声だった。
「八年間、商会を支えてきた妻を、そのように扱うとは」
「過ぎたことを言っても仕方がありません」
ウェステリアは、静かに答えた。
「今は、証拠を集めることが先決です」
ルーレンスはウェステリアを見た。その目に、何か複雑なものが揺れていた。
「たしかに、ハロルドは私も以前から贔屓にしている探偵だ。腕は確かだろう」
そう言ってから、ルーレンスは再び視線を落とす。
「しかし、君は一人で抱え込みすぎではないか?」
その言葉が、思いがけず胸に刺さった。
ウェステリアは、視線を窓の外に向けた。
確かに、私は幼い頃からあまり人に弱みを見せないところがあった。幼いルーレンスに、たびたびそれを咎められることもあった。
「仕方のないことです」
今は自分以外、信じられるものなどないのだから。ウェステリアはため息を落とした。
「幼馴染として、力になりたいんだ。何かあれば、遠慮なく頼ってほしい」
ルーレンスはそう言って、しばらくこの町で滞在するための彼の邸宅の場所を教えてくれた。
いつもなら強がってしまうウェステリアであったが、この時は素直にそれを受け取った。
今の自分には、頼れる人間が必要だということも、わかっていた。
「……ありがとうございます」
ルーレンスは、それを聞いて小さく頷いた。
それは、幼い頃と変わらない、静かな笑みだった。
窓の外では、初夏の風が通りの木々を揺らしていた。
久しぶりに、ウェステリアは少しだけ、肩の荷が軽くなったような気がした。




