第5話 浮気調査の依頼
翌日の昼過ぎ、ウェステリアは一人で町に出た。
目指したのは、商業地区の外れにある、ハロルド調査事務所という小さな事務所だった。
以前、商会の取引先の信用調査を依頼したことがあり、その時の仕事ぶりが丁寧だったことを覚えていた。
人を調べることにも、長けているはずだ。
事務所の扉を開けると、煙草の煙と古い紙の匂いが混じり合った空気が漂ってきた。
カウンターの奥に、四十代と思しき男が座っていた。顎に無精髭を生やし、丸眼鏡の奥の目が、ウェステリアをじっと見た。
「ハロルドさんですか」
「そうだが」
男はゆったりと立ち上がった。
「どのようなご用件で」
「人の調査をお願いしたいのです。
夫の……行動を、調べていただきたい」
ハロルドは、表情一つ変えずに頷いた。
「どうぞ、お掛けください」
ウェステリアは、できる限り冷静に、事情を説明した。
夫のエヴァンスが突然離縁を申し出てきたこと。その直前から様子がおかしかったこと。
町で見知らぬ女と親密にしているところを目撃したこと。しかし決定的な証拠がないこと。
ハロルドは話を聞きながら、手元の手帳に何かを書き留めていた。
時折、短い質問を挟んだ。
女の外見の特徴は。どの辺りで目撃したか。エヴァンスが外出する頻度は。
「なるほど」
ひと通り聞き終えて、ハロルドは手帳を閉じた。
「不貞の証拠集めは、私どもの専門です。ご依頼の件、お引き受けしましょう」
「ありがとうございます」
ウェステリアは、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。
「費用はいくらになりますか」
「まず一ヶ月、調査してみましょう。費用は調査内容によって変わりますが、概算はこちらに」
ハロルドが紙に書いた金額を見て、ウェステリアは少し考えた。
手持ちの資金は多くはない。
しかし、ここで出し惜しみをしている場合ではなかった。
「わかりました。お願いします」
「承りました。ただし」
ハロルドは、眼鏡の奥の目をウェステリアに向けた。
「依頼人の秘密は厳守します。逆に、奥様の方も、この調査のことは他言無用でお願いしたい。調査中に対象者に気取られれば、証拠を隠滅される恐れがある」
「もちろんです」
「それから、定期的に報告の機会を設けます。概ね十日に一度、こちらの事務所にお越しいただけますか」
「はい」
「では、よろしくお願いします、奥様」
ハロルドは、初めて薄く微笑んだ。
その笑みは愛想のいいものではなかったが、仕事に対する自信のようなものが滲んでいた。
ウェステリアは、この男なら信頼できると感じた。
***
事務所を出ると、初夏の日差しが降り注いでいた。
ウェステリアは歩きながら、少し息を整えた。
動き出せた、という実感があった。嘆いて、俯いて、ただ流されていた数日間とは違う。
自分の足で、自分の意思で、一歩を踏み出した。
しかし同時に、焦りもあった。
エヴァンスは、正式な離縁の手続きをまだ進めていない。
それは今のところウェステリアにとって有利な点だが、エヴァンスがいつ動き出すかはわからない。その前に、証拠を手に入れなければならない。
——急がなければ。でも、焦って失敗してはいけない。
ウェステリアは屋敷への帰り道を歩きながら、頭の中で計画を整理していた。
ハロルドの調査と並行して、ウェステリア自身にもできることがある。
エヴァンスの行動パターンを注意深く観察すること。
女の素性について、商会の従業員たちから情報を集めること。
そして、引き継ぎ作業を表向き続けながら、屋敷に留まる時間を確保すること。
エヴァンスを油断させておく必要があった。
ウェステリアが大人しく出て行くつもりだと、そう思わせておけば、エヴァンスは警戒を緩めるだろう。
——エヴァンス、あなたは私をただの都合のいい妻だと思っていたでしょう。
ウェステリアは、前を向いたまま、静かに唇を引き結んだ。
——でも、私はそれほど、おとなしくはありませんよ。
***
その夜、ウェステリアはトーマスに短い手紙を書いた。
内容は簡潔だった。調査を始めた。しばらく時間がかかるが、動いている。皆に伝えてほしい——それだけだった。
手紙を書き終えて、ウェステリアは灯火の炎をしばらく見つめた。
従業員たちの顔が、頭に浮かんだ。
涙をこらえていたマーガレット。静かに怒りを抑えていたトーマス。まだ若いジャックとサイモン。彼らの生活も、この一件にかかっている。
——絶対に、負けるわけにはいかない。
ウェステリアは灯火を吹き消し、目を閉じた。
暗闇の中で、彼女の決意だけが、静かに燃えていた。
** *
それから十日が経った。
ウェステリアは表向き、引き継ぎ作業を粛々と続けていた。
エヴァンスは相変わらず屋敷にいる時間が少なく、ウェステリアと顔を合わせても短く言葉を交わすだけで、すぐにどこかへ出かけていった。
彼が何も疑っていないことは、その態度を見ればわかった。
——好都合だ。
ウェステリアは内心でそう思いながら、淡々と日々をこなした。
昼間は引き継ぎ書類を整え、夜はエヴァンスの行動を密かに記録した。
何時に外出して、何時に戻ったか。どの方向へ向かったか。どんな服装をしていたか。些細なことでも、手帳に書き留めた。




