第4話 従業員たちとの約束
「皆さんの気持ちは、ありがたく受け取ります」
ウェステリアは、なんとか声を落ち着けて言った。
「でも、商会はエヴァンス様のものです。私には、ここに留まる権限がない。皆さんが心配してくださるのはわかりますが、どうしようもないことなのです」
「……奥様」
トーマスは、しばらく黙ってから、意を決したように言った。
「一つ、聞いてもいいですか。旦那様が奥様を追い出そうとしている本当の理由を、皆うすうす感じています。
旦那様が、よそに女を作っているのではないかと」
ウェステリアは、かすかに息を呑んだ。
「……それは」
「違うとは言えないのですね」
トーマスの目が、静かに、しかし深く、ウェステリアを見た。
ウェステリアは答えなかった。しかし、その沈黙が答えだった。
従業員たちの間に、怒りの空気が漂った。マーガレットが、唇をきつく結んで俯いた。ピートが、太い腕を組んで唸った。
「……許せませんね」
マーガレットが、絞り出すように言った。
「奥様がどれだけこの商会のために尽くしてこられたか。私たちは皆、見てきました。それなのに、こんな形で追い出されるなんて」
「マーガレット、落ち着いて」
「落ち着いていられません」
マーガレットは顔を上げた。その目には、うっすらと涙が光っていた。
「奥様こそ、もっと怒っていいんです。なのに奥様は、いつだって静かで、黙って引き継ぎをして……そんな奥様を見ていたら、私たちの方が悔しくて」
ウェステリアは、何も言えなかった。
***
しばらくの沈黙の後、トーマスが再び口を開いた。
「奥様、一つだけ、私どもからお伝えしたいことがあります」
「……なんですか」
「もし奥様がこの商会を去ることになった時には、私どもも、この商会での仕事をやめます」
ウェステリアは、思わず顔を上げた。
「それは——」
「ボイコットです」
トーマスは、静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「奥様がいなくなった商会で、私どもが働き続ける理由はありません。奥様がいてこその、この仕事です」
「そうです」
ピートが続いた。
「私も同じ気持ちです」
「私も」 マーガレットが言った。
「俺も」 ジャックとサイモンが、声を揃えた。
ウェステリアは、しばらくの間、何も言えなかった。
ボイコット。それがどれほど大きな決断か、ウェステリアにはわかっていた。
仕事を失えば、生活に困る者も出てくるかもしれない。それでも、彼らはそう言ってくれた。
「……皆さん、それは大変なことになりますよ」
ウェステリアは、震えそうになる声をなんとか抑えながら言った。
「仕事を失えば、生活が——」
「それは承知の上です」
トーマスは、真っ直ぐにウェステリアを見た。
「奥様、私どもはあなたを信じてここまで働いてきました。あなたのいない商会に、私どもの居場所はありません。それだけのことです」
ウェステリアは、もう言葉が出なかった。
目の奥が熱い。こらえようとしても、もう限界だった。
ウェステリアは静かに、しかし確かに、涙を一粒こぼした。すぐに指で拭い、深く息を吸った。
「……ありがとうございます」
それだけを、やっと言えた。
「奥様」とトーマスが、少し声を和らげて言った。
「このままで終わりにする必要はないと、私どもは思っています。旦那様が不義を働いているなら、それは証明できるはずです。奥様には、まだできることがあるのではないでしょうか」
その言葉が、ウェステリアの胸の中で、静かに火を灯した。
——そうだ。まだ終わっていない。
ウェステリアは顔を上げ、従業員たちを一人一人、見渡した。
「皆さん、もう少しだけ待っていてください。私には、やらなければならないことがあります」
トーマスが、深く頷いた。
その日の夕暮れは、不思議と穏やかに見えた。
** *
従業員たちが帰った後、ウェステリアは執務室の椅子に深く腰を落とした。
トーマスの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
——旦那様が不義を働いているなら、それは証明できるはずです。
そうだ。あの日、町で見かけた光景は、ウェステリアの目には明らかだった。
エヴァンスが見知らぬ女と親密にしていた。しかしそれだけでは、証拠にはならない。
偶然の同席だと言い逃れをされれば、それまでだ。
不義の証拠がなければ、ウェステリアは一方的に離縁を突きつけられた被害者のまま、泣き寝入りするしかない。
持参金はエヴァンスの借金返済に消えた。離縁となれば、ウェステリアの手元には何も残らないのだ。
——それだけは、受け入れられない。
ウェステリアは机の上で手を組み、静かに考えを巡らせた。
証拠を掴むためには、専門の人間の力を借りるしかない。自分一人でエヴァンスの行動を追うには限界がある。
それに、万が一エヴァンスに気づかれれば、状況が悪化するだけだ。
——まずは、証拠を掴むところから始めなければ。
マーガレットが言っていた、町に古くからある“探偵事務所”その考えが固まるまで、そう時間はかからなかった。




