第3話 貿易会社の従業員たち
「お話があります」
ウェステリアが応接室に入ると、エヴァンスはソファで葡萄酒を傾けていた。
昼間から飲んでいるのか、と思ったが、それを口にするのはやめた。
「引き継ぎに関して、確認していただきたいことがあります。後任の方をどなたにされるか、早めに決めていただかないと——」
「後任?」
エヴァンスは眉を上げた。
「そんなものは必要ない。君一人が出ていくだけのことなのに、わざわざ後任など必要ないだろう」
「ですが、それでは……」
ウェステリアは口篭った。
ウェステリアがいなくなれば、業務はすぐに立ち行かなくなるだろう。それは、従業員たちの反応を見ても明確だった。
「名残惜しいからと言って、大袈裟に喚き立てるな」
エヴァンスに冷たくそう言われて
ウェステリアは、一瞬言葉を失った。
「そんなつもりはありません。
ただ、わたしは他の従業員に迷惑がかからないようにとーー」
「うるさい。私が必要ないと言ったら必要ない」
あまりにも身勝手な言葉だった。
しかし、かれにそう言われた以上、ウェステリアにはもうどうしようもなかった。
ウェステリアは一礼して、応接室を後にした。廊下に出た瞬間、深く息を吐いた。
——私が彼のために行なってきたことは、すべて無駄だったというわけね。
そう、はっきりと悟った瞬間だった。
***
その夜、ウェステリアは自室で一人、灯火の前に座っていた。
引き継ぎの書類をまとめた束が、机の上に積まれている。
商会に関するすべての知識と、八年間の記録が、そこに凝縮されていた。
ウェステリアはそっと、その束の表紙に手を置いた。
――会社を退くのに後悔ががないと言えば、嘘になる。
この仕事を通じて出会った人々、乗り越えてきた数々の困難、異国の品が港に届いた時のあの高揚感
——それらはすべて、ウェステリアにとって本物の記憶だった。
しかし、もう終わりにしなければならない。
ウェステリアは灯火を吹き消した。暗くなった部屋の中で、ただ静かに、次の一手を考え続けた。
** *
引き継ぎ作業を始めてから、一週間が経った。
ウェステリアは毎日、朝から夕方まで執務室に籠もり、書類の整理と手順書の作成を続けていた。
取引先への挨拶状の下書き、船舶の整備スケジュールの一覧、倉庫の在庫管理の手順、従業員それぞれの担当業務の覚書
——積み上げれば相当な量になる書類の束が、日を追うごとに厚みを増していった。
エヴァンスは相変わらず、ウェステリアの仕事に口を出すことも、手を貸すこともしなかった。
ただ、屋敷のどこかで葡萄酒を飲んでいるか、外出しているかのどちらかだった。
ウェステリアは、それでいいと思っていた。余計な干渉がない分、仕事に集中できる。
感情を揺さぶられる場面さえなければ、自分はまだ平静でいられる。そう思いながら、黙々と作業を続けた。
しかしその日の午後、執務室の扉を叩く音がした。
***
「奥様、少々よろしいでしょうか」
入ってきたのは、商会の古参従業員であるトーマスだった。
五十代半ばの、がっしりとした体格の男だ。もともとは船乗りで、ウェステリアが嫁いでくる前からハミルトン商会に勤めている。
寡黙で実直な人柄で、ウェステリアが最も信頼を置いている従業員の一人だった。
トーマスの後ろには、さらに数名の顔が見えた。経理担当のマーガレット、港の倉庫を管理するピート、若手の船員のジャックとサイモン
——いずれも、ウェステリアが長年ともに働いてきた面々だった。
「どうしたのですか、みんな揃って」
ウェステリアが問うと、トーマスは帽子を手に持ったまま、少し言いにくそうに口を開いた。
「奥様が、商会を去られるという噂を耳にしました。本当のことでしょうか」
ウェステリアは、静かに頷いた。
「本当のことです。詳しい事情はお話しできませんが……私はここを離れることになりました。
今は引き継ぎの準備をしているところです」
その言葉を聞いた瞬間、従業員たちの顔に、明らかな動揺が走った。
「そんな……」
マーガレットが、声を詰まらせた。三十代の、てきぱきとした女性で、ウェステリアのもとで経理の仕事を覚えた。
「奥様がいなくなってしまったら、私たちはどうすればいいんですか」
「大丈夫です」
ウェステリアは、できるだけ穏やかな声で言った。
「引き継ぎの書類は、できる限り丁寧にまとめています。業務の手順はすべて書き記しますから、あとは新しい方の指示に従って——」
「書類の問題ではないんです」
トーマスが、静かに、しかしはっきりと言った。
「奥様、私はこの商会に長く勤めております。旦那様の父上の時代から。
ですが正直に申し上げると、商会がここまで大きくなったのは、奥様が来てくださってからのことです」
ウェステリアは、言葉に詰まった。
「船の整備のことも、仕入れの段取りも取引先との交渉も——奥様は全部、ご自身で把握しておられる。
書類に書けることには限りがあります。奥様の頭の中にあるものは、書類には書き切れない」
それは、ウェステリア自身がこの一週間で実感していたことだった。だからこそ、トーマスの言葉は胸に刺さった。
「トーマスさん……」
「旦那様が後任を立てるとおっしゃっても、奥様の代わりが務まる方が、すぐに見つかるとは思えません。商会は、立ち行かなくなるでしょう」
ピートも、頷きながら続けた。
「先月の絹織物の納品の時だって、奥様が取引先と直接交渉してくださったから、なんとかなったんです。あの値引き交渉、私には到底できません」
「ジャック、お前も何か言え」
サイモンに促されて、若いジャックが、少し赤くなりながら口を開いた。
「俺、奥様に航海の記録の付け方を教えてもらいました。最初は全然わからなかったのに、丁寧に教えてくださって……。
奥様がいなくなったら、誰に聞けばいいのかって、そればかり考えてて」
ウェステリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
こらえようとしたが、目の奥がじわりと滲んだ。慌てて視線を書類に落とし、唇を引き結んだ。




