第2話 浮気の現場を目撃
夕方になって、ウェステリアは気持ちを整理したくて、一人で町に出た。
ハミルトン伯爵邸のある一角から少し離れた商業地区の通りを、目的もなく歩いた。
石畳の上に、夕暮れの橙色の光が伸びている。行き交う人々は皆、当たり前のように日常を生きていた。
——私のこれからは、どうなるのだろう。
そんなことを考えながら歩いていた時、ふと目に留まるものがあった。
通りに面した小さなカフェの前、テラス席に座る二人の男女。
見間違えるはずがない。あの横顔は、今朝まで同じ屋根の下で暮らしていた夫
——エヴァンス・ハミルトン伯爵だった。
ウェステリアは、思わず足を止めた。
エヴァンスの隣には、ウェステリアの知らない女がいた。
年の頃は二十代の前半か。華やかな薄桃色のドレスを身にまとい、くるくるとよくまわる舌で何かを喋りながら、エヴァンスの腕に自分の腕を絡ませている。
エヴァンスはそれを厭う様子もなく、むしろ楽しそうに笑っていた。
ウェステリアは、今朝の応接室での光景を思い出した。
——長年の夫婦生活に疲れた。
——生気がない。
あの言葉の裏に、これがあったのだ。
ウェステリアは、二人から視線を外せないまま、しばらく立ち尽くした。怒りが込み上げてくるかと思ったが、不思議と、そうはならなかった。胸の中にあったのは、冷えていくような静けさだった。
——そうか。そういうことだったのか。
夫婦生活に飽いたというのは、本当のことではなかったのだ。正確には、別の女に心を移したから、ウェステリアが邪魔になった。それだけのことだったのだ。
ウェステリアはゆっくりと踵を返した。
エヴァンスは、こちらに気づいていない。気づかれなかったことが、むしろ幸いだと思った。今のウェステリアには、彼と言葉を交わす準備ができていなかった。
***
帰り道、夕暮れの空が燃えるように赤かった。
ウェステリアは、その赤さをまっすぐに見つめながら、歩き続けた。
——これは、ただ受け入れるべきことではない。
まだ何も決まっていない。何も終わっていない。
そのことだけは、はっきりとわかった。
** *
翌朝、ウェステリアは普段通りに目を覚ました。
昨夜はほとんど眠れなかった。
天井を見つめながら、頭の中でさまざまな考えが行き来した。
離縁の話、エヴァンスの隣にいた女、八年間の結婚生活——それらが波のように押し寄せては、引いていった。
しかし夜明けとともに、ウェステリアの中で何かが静かに固まっていった。
泣いても、嘆いても、現実は変わらない。
ならば、動くしかない。
ウェステリアは身支度を整えると、いつものように執務室へ向かった。
***
ハミルトン伯爵家が営む貿易業は、正式にはハミルトン商会という名称で、エヴァンスの父の代から続く事業だった。
もともとは細々とした輸入業に過ぎなかったが、ウェステリアが嫁いでから本格的に規模が拡大した。
現在の主な事業は、インドや中国などの東方諸国から、香辛料や絹織物を仕入れて国内の貴族や商人に卸す貿易業である。
商会は現在、二隻の船を保有していた。一隻は大型の帆船で、東方との長距離航路を担い、もう一隻はやや小ぶりの船で、近海の輸送や緊急時の対応に使われていた。
船の維持管理、航路の調整、出港スケジュールの管理——それらすべてをウェステリアが取り仕切っていた。
さらに、仕入れた商品の在庫管理、国内の取引先との受発注業務、商品の配送手配、そして二十名を超える従業員の勤怠管理や給与の計算まで、ウェステリアの仕事は多岐にわたった。
エヴァンスは、社交の場でハミルトン商会の名前を売ることと、大口の取引先との会食に顔を出すことが主な役割だった。
それはそれで必要な仕事だとウェステリアは思っていたが、実務の九割はウェステリアが担っていたのが実情だった。
***
その日の朝、ウェステリアは執務机に向かいながら、一つの現実を直視していた。
——エヴァンスが離縁を望んでいる以上、私はこの商会から手を引かなければならない。
商会はエヴァンスの名義だ。
ウェステリアがどれだけ実務を担っていたとしても、法的にはエヴァンスのものである。離縁すれば、ウェステリアにここに留まる権利はなくなる。
そうわかっていても、机の上に積まれた書類を見ると、胸が痛んだ。
来月の仕入れ計画、港の倉庫業者との契約更新の書類、船員たちへの給与明細の下書き
——どれも、ウェステリアが丁寧に積み上げてきたものだった。
ウェステリアは深く息を吸って、羽根ペンを取った。
まずは、私が担ってきた業務を手放す準備を始めなければならない。
***
その日の昼過ぎ、エヴァンスがウェステリアの執務室に現れた。
「まだここにいたのか」
入口に立ったまま、エヴァンスは不機嫌そうに言った。
「業務引き継ぎの準備をしております。
業務の内容を整理して、後任の方が困らないようにまとめておかなければなりませんから」
ウェステリアは顔を上げず、淡々と答えた。
「そんなものは誰かに任せればいい。お前はさっさと荷物をまとめて出て行けばいい」
「それはできません」
ウェステリアは、ようやく顔を上げてエヴァンスを見た。
「私が今すぐここを出て行けば、商会の業務が立ち行かなくなります。
船の定期点検の手配も、来月の香辛料の納品対応も。
――あなたはそれを、ご自身でできますか」
エヴァンスは黙った。
図星だとわかっているのだろう。帳簿の読み方すら怪しい彼が、突然一人で商会を切り盛りできるはずがない。
「ふん……くだらない」
結局、エヴァンスはそれだけ言って、踵を返した。
ウェステリアはその背中を見送ってから、再び書類に目を落とした。
怒りは、もうほとんどなかった。あるのは、静かな決意だけだった。
***
それから数日間、ウェステリアは黙々と引き継ぎの準備を進めた。
業務の手順書を一から書き起こし、取引先の一覧と連絡先をまとめ、船舶の整備記録や、保有する在庫の詳細リストを整理した。
どれほど些細なことも、後任者が迷わないように丁寧に記録しなければ。
作業を進めながら、ウェステリアは改めて実感した。
——私は、この商会のことを、本当によく知っていた。
どの取引先の担当者が気難しく、どんな言葉をかければ話がまとまるか。
どの航路がどの季節に荒れやすく、どれだけの余裕を持って出港すればよいか。
どの倉庫が湿気に弱く、絹織物の保管には向かないか。
そういった知識のすべてが、ウェステリアの頭の中にあった。書類には書き切れない、経験の積み重ねによって培われたものだった。
——これを、一体誰に引き継げるのだろう。
そう思うと、胸に重いものが落ちてきた。
しかしウェステリアはその感情を、また静かに押し込めた。
感傷に浸っている時間はない。




