第1話 一方的な離縁の申し出
春の終わりを告げる風が、ハミルトン伯爵邸の窓辺のカーテンを静かに揺らしていた。
――ウェステリア・ハミルトンは、執務机の前に座り、羽根ペンを走らせていた。
帳簿の数字を確認しながら、仕入れた絹織物の在庫量と、次の船便の到着予定日を照らし合わせる。
インドから取り寄せた香辛料の一部がまだ倉庫に残っている。
次の市に合わせて売りに出すか、それとも王都の卸売業者に先に打診するか——そういった判断を、ウェステリアは毎日こなしていた。
夫であるエヴァンス・ハミルトン伯爵は、貿易業の名義上の経営者だ。
しかし実際のところ、船舶の維持管理から商品の受発注、従業員の労務管理に至るまで、事業のほぼすべてをウェステリアが担ってきた。
エヴァンスは数字が苦手で、帳簿を見るなり眉をひそめる人だった。
それでも、ウェステリアは文句一つ言わず、黙々と仕事をこなしてきた。これが自分の役割だと、そう思っていたから。
——いや、正確には、それだけではなかった。
ウェステリアは、この仕事が好きだった。
遠い異国の港から届く便りを読むたびに、見たこともない海や空を想像した。
船乗りたちが持ち帰る珍しい品々に触れるたびに、世界の広さを感じた。
それに、従業員たちと力を合わせて困難を乗り越えた時の達成感は、何物にも代えがたかった。
ウェステリアは静かに、しかし確かに、この仕事に誇りを持っていた。
だから、その日の午後に呼び出された時も、まさかあのような言葉を告げられるとは思っていなかった。
* * *
「ウェステリア、話があるんだ」
エヴァンスは、屋敷の応接室の窓際に立っていた。
いつもと様子が違う。どこかそわそわしていて、ウェステリアと目を合わせようとしない。
「なんでしょう」
ウェステリアは、向かいのソファに腰を下ろした。いつもの落ち着いた所作で、手を膝の上に揃える。
エヴァンスは少しの間黙ったあと、ようやく口を開いた。
「お前とは、もう長い夫婦生活を送ってきた。だが……俺は、正直に言おう。もう限界だ」
「……そんな、どうして」
ウェステリアは、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
「長年連れ添ってきたが、俺たちの間には生気というものがない。お前はいつも仕事のことばかりで、俺との時間を大切にしてくれたことがあったか?」
それは、あまりにも理不尽な言葉だった。
——私が仕事をしていたのは、あなたのためではなかったのですか。
喉元まで出かかった言葉を、ウェステリアはかろうじて飲み込んだ。
感情的になっても、何も解決しない。そうやって、いつも自分を抑えてきた。
「それで……私に一体どうしろとおっしゃりたいのですか」
「もう“別れて”ほしい。
君との結婚生活は、もうこれきりだ」
ウェステリアは、しばらくの間、声が出なかった。頭の中が、白くなっていくような感覚があった。
「……理由は、それだけですか。夫婦生活が覚めきった、それだけで」
「それ以外に何が必要だ。俺はもう、この生活に疲れた」
エヴァンスは、まるで重荷を降ろすかのように言った。
その口調には、長い間抱えていたものをようやく吐き出したような、どこか晴れやかさすら漂っていた。
ウェステリアは、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
しかしそれは、悲しみというよりも、もっと複雑なものだった。十年近い歳月が、たった一言で否定されたような、そんな虚しさだった。
「私は、納得がいきません」
ウェステリアは、静かに、しかしはっきりと言った。
「私はこの家のために、この事業のために、できる限りのことをしてきました。それなのにどうして——」
「お前がなんと言おうと、私の気は変わらない」
エヴァンスは、ウェステリアの言葉を遮った。
話し合う気など、最初からないのだとわかった。
***
応接室を後にしたウェステリアは、自室に戻り、しばらく窓の外を見つめていた。
エヴァンスと結婚したのは、八年前のことだ。
ウェステリアの実家であるヘンリウッド伯爵家は、数代前まで平民の家系だった。
曽祖父の代から商才を発揮して財を成し、祖父の代に準男爵位を、そして父の代にようやく伯爵位を授かった。いわば新興の貴族家である。
古くからの貴族たちからは、ことあるごとに「成り上がり」と陰口を叩かれることもあった。
そうした家に生まれたウェステリアは、幼い頃から人一倍、勉学に励んだ。
家名を汚してはならないという重圧もあったが、それ以上に、知ることそのものが好きだった。
歴史、算術、地理、語学——とりわけ交易に関わる知識を貪るように吸収した。
航海術の基礎や、各地の港の特性、商品の需給の仕組みなど、令嬢が学ぶ必要などないとされる分野にまで、ウェステリアは自ら踏み込んでいった。
そんなウェステリアに、エヴァンスとの縁談が持ち込まれたのは、ウェステリアが二十歳の時だった。
ハミルトン伯爵家は古い名門だったが、先代の放漫な経営によって多額の借金を抱えていた。
エヴァンスはその返済のために、持参金の多い家からの婚姻を求めていた。
ヘンリウッド伯爵家は財力があり、ウェステリアはその一人娘だった。双方の利害が一致した、いわゆる政略的な縁組だった。
ウェステリア自身も、そのことは承知していた。愛で結ばれた結婚ではないことも。
それでも、ウェステリアは前向きに嫁いだ。
エヴァンスは、貿易業の名義上の経営者として事業を持っていた。
自分の知識を活かせる場がある。それだけで、十分だと思っていた。
いつか、仕事を通じてエヴァンスとの間に本当の信頼が生まれるかもしれない——そんな淡い期待もあった。
しかし現実は、その期待とはずいぶん異なるものだった。
エヴァンスは経営に興味を持たず、帳簿も読めなかった。最初こそウェステリアの仕事ぶりに感謝する素振りを見せていたが、やがてそれも当たり前になった。
ウェステリアが事業を回し、エヴァンスが伯爵として社交の場に出る。そういう分業が自然と出来上がっていった。
愛情があったかと問われれば、ウェステリアには答えられない。しかし、不満を抱えながらも、これが自分の人生だと受け入れていたのは確かだ。
——それが今日、あっさりと終わりを告げられた。
ウェステリアは静かに息を吐いた。
引き継ぎの書類がある程度まとまった頃、ウェステリアはエヴァンスのもとを訪ねた。




