第21話 屋敷への潜入
木曜日の夜。
ウェステリアは暗い色の外套を羽織り、ルーレンスの馬車でハミルトン伯爵邸の近くまで移動した。
馬車は目立たない路地に停め、ウェステリアは一人で歩いた。
夜の町は静かだった。石畳に足音が響かないよう、ウェステリアはゆっくりと、しかし迷いなく歩いた。伯爵邸の裏手に回り込み、勝手口へと向かう。
植木鉢を持ち上げると——合鍵はまだそこにあった。
冷たい金属の感触に、ウェステリアは静かに息を吐いた。手が少し震えていたが、それを無視して鍵穴に差し込んだ。慣れた感触で、扉が静かに開いた。
***
屋敷の中は暗かった。
ウェステリアは小さな手燭を取り出し、低く持ちながら廊下を進んだ。八年間暮らした屋敷だ。どこに床の軋む場所があるか、どこを踏めば音が出ないか、体が覚えていた。
台所を抜け、廊下を左に折れ、階段へ。一段一段を、慎重に上る。二階の廊下に出ると、左から三つ目の扉——エヴァンスの執務室だ。
扉に手を当て、ゆっくりと押した。施錠されていない。ウェステリアは中に入り、扉を静かに閉めた。
執務室の窓から、月明かりが差し込んでいた。
机は、あの頃と変わらず部屋の奥にある。ウェステリアは机に近づき、手燭の灯りで引き出しを確認した。
一番上の段、書類の束。二段目、封書が数通。三段目——。
引き出しに手をかけると、そこは鍵がかかっていた。
ウェステリアは眉をひそめた。以前はかかっていなかった。エヴァンスが、何かを隠すようになったのだろうか。
しかしテーブルの上を見ると、ちょうど引き出しの鍵穴と合致する鍵が、捨て置かれているのを見つけた。彼はいつだって爪が甘い。
鍵を拾い上げて、鍵穴に差し込むとそれはカチリと音を立てて開いた。
引き出しを開けると、中には数通の封書があった。
手燭で照らしながら差出人を確認すると——ルイーゼ・クロスの名前があった。
——あった。
ウェステリアは、封書を素早く外套の内側に収めた。
これで証拠が掴める。ウェステリアがほっと胸をなでおろした、しかしその時だった。
「何をしている」
暗がりから、声がした。
***
ウェステリアは、体が固まった。
部屋の隅、扉の近くの暗がりに、人影があった。それがゆっくりと近づいてくる。
手燭の灯りが、その顔を照らし出した。
恐る恐る振り返る。
眼の前に立っていたのは――エヴァンスだった。
彼はいつもと違う、冷たい目をしていた。
怒りよりも、何か計算したような、ぞっとする静けさがあった。
「今夜、お前が来ると思っていた」
エヴァンスは、低く言った。
「……どういう意味ですか」
「ルイーゼが話してくれた。夜会で、若い男に色々と喋ってしまったと。その男が、お前の差し金だとすぐにわかった」
ウェステリアは、素早く状況を判断した。
彼は、私がここに来ることを知っていたのだ。そして、身を潜めて待ち伏せしていた。
ウェステリアは、一気に顔に血の気が引くのを感じていた。
ウェステリアは、緊迫した状況の中でも冷静に思考を巡らせる。
扉までの距離。エヴァンスとの距離。逃げられるか——。
しかしエヴァンスは、ウェステリアが動く前に、扉の前に立ちふさがった。
そして手に持っていたものを、ウェステリアに向けた。
――彼の手に握られていたものは、小さな鉄製の銃だった。
「その手紙を、返せ」
エヴァンスの声は、静かだった。しかし、有無を言わせない口調。
ウェステリアは、動けなかった。
外套の内側に収めた封書の感触が、やけに重く感じた。このまま渡せば、すべてが終わる。しかし渡さなければ——。
「エヴァンス様」
ウェステリアは、震えそうになる声を抑えながら言った。
「こんなことをしてもあなたの不義の事実は——」
「黙れ」
エヴァンスは、一歩近づいた。
「お前にはもううんざりだ。
我が妻で有賀なら、お前はいつだって俺の邪魔ばかりして」
「そんなつもりは__私はエヴァンス様に誠意を持ってお使えしておりました」
ウェステリアは思わず反論した。
自分なりに、エヴァンスさまと向き合い、真摯に愛情をもって接したはずだった。
それなのに__
「でまかせを言うな!
お前はそうやって、私の会社と仕事を奪った。私のためと言って、貿易の経営に手を出し、勝手に動かし始めた」
「私は、エヴァンス様の力になりたいと」
「それが余計なお世話だと言っているんだ。
女のくせに、分不相応なことをして。女なら女らしく、私の後ろで大人しくしていればよかったんだ」
ウェステリアは、返す言葉が見つからなかった。
自分が、彼のためと思ってやってきたことが、エヴァンス様を傷つけていたなんて。
「つまらないお前との関係も、これでおしまいだ。
警察には、屋敷に侵入しようとしたこそ泥と見間違えた、とでも言っておくよ」
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋が冷えた。
エヴァンスは残酷な笑みを浮かべて一歩迫る。
ウェステリアは、助けを呼ぼうとしたが、無駄だと悟った。
窓は二階で、飛び降りるには高すぎる。扉はエヴァンスが塞いでいる。
ここで声を上げたとしても、次の瞬間には彼はここで銃の引き金を引くだろう。
ウェステリアは、まっすぐにエヴァンスを見たが、激昂したエヴァンスにはためらいの色は感じられなかった。
――私は、全てを悟って、そっと目を閉じた。
――一瞬の沈黙、しかし次の瞬間、執務室の扉が勢いよく開いた。
「動くな!」
ドタドタと、何者かが階段を駆け上がる音が響いたかと思うと、
制服を着た警官が、数名、扉口に立っていた。
その後ろに、ルーレンスの顔が見えた。
***
「どうして私が危険にあることが分かったのですか」
「君が屋敷に入っていったあの後すぐに、階段に明かりが灯って
後を負っていく人影が見えたんだ」
後から、ルーレンスは言った。
「エヴァンスだとすぐに分かった。それで、側にいたハロルドがすぐに警察を呼びに行った。私は屋敷に忍び込んで、後ろからエヴァンスの銃を取り上げる機会を伺っていたんだ」
ウェステリアは、言葉が出なかった。
「あなたがいなければ、今頃私はこの世にいなかったでしょう」
ややあってそうつぶやく。
安堵とともに、前身に震えが走った。ウェステリアはそのまま、ルーレンスの両腕に身を寄せた。
「君が無事で良かった」
ルーレンスは深く息をはいてそう言うと、しっかりとウェステリアを抱きとめた。




