第14話 会社買収作戦2
そうと決まれば、皆の動きは早かった。
翌日から、ルーレンスは自身の顧問弁護士を通じて、ハミルトン商会の買収に向けた法的手続きの準備を始めた。
商会の資産評価、船舶の査定、取引先との契約状況の整理
——それらを並行して進めながら、エヴァンスへの買収打診のタイミングを慎重に計った。
ウェステリアは、従業員たちと連絡を取り合いながら、商会の現状把握に努めた。
ボイコット中とはいえ、トーマスたちは状況の記録だけは続けてくれていた。
どの取引先がどの程度の不満を抱えているか、どの業務がどれだけ滞っているか
——それらの情報が、ウェステリアの手元に集まってきた。
「思っていたより、傷みは深いようだ」
ある夜、ルーレンスの屋敷の書斎で、二人は資料を広げながら話し合っていた。
「エヴァンス様が商会に関わらなかった期間は短いはずなのに、取引先との関係がここまで悪化しているとは」
「信用というのは、積み上げるのに時間がかかり、失うのは一瞬です」
ウェステリアは、資料に目を落としながら言った。
「取引先は、商会が混乱していると感じた瞬間から、代わりの取引先を探し始める。当然のことです」
「立て直しには時間がかかりそうだろうか?」
「ええ。ただ——」
ウェステリアは少し考えてから続けた。
「取引先の多くは、私のことを直接知っています。私が戻るとわかれば、関係の修復は比較的早くできると思います」
ルーレンスは、それを聞いて小さく頷いた。
「あなたがいることが、商会の信用そのものだった、ということなのだね」
ウェステリアは、その言葉に少し面食らいながら、視線を書類に戻した。
***
一方、意図せずに急に事業を手放すことになったエヴァンスは予想通り、怒りをつのらせていた。
従業員のボイコットによって商会が機能不全に陥り、取引先からの苦情が相次いでいた。
にもかかわらず、エヴァンス自身は事態を収拾する術を持っていなかった。
かつてはウェステリアが全てを解決してくれた。しかし今は、その手がない。
エヴァンスは従業員たちを次々と呼びつけては怒鳴り散らしたが、それがかえって状況を悪化させた。
何人かはすでに商会を去り、残った従業員たちの士気も底をついていた。
「旦那様の様子を、内部から伝えてくれる者がいます」
トーマスが、ある日ウェステリアに報告した。
「相当焦っておられるようです。先日、新たに経営を任せられる人材を探していると、知人に打診されたとか」
「それは——」
ウェステリアは、少し考えた。
「そう簡単には見つからないでしょう。一朝一夕で、あの規模の商会を動かせる人間は」
「えルイーゼからこそ、今が好機かと」
ルーレンスへの買収打診のタイミングは、もうすぐだった。
***
その夜、ウェステリアは書斎の窓から外を眺めた。
月が出ていた。輝くような満月ではなく、雲の切れ間から覗く細い月だった。
しかしその光は、夜の庭を静かに照らしていた。
——もう少しで、動き出せる。
慰謝料のこと、商会の経営権のこと、そしてまだ揃っていない不義の証拠のこと。
課題はまだ山積みだった。しかし今は、一人ではない。
トーマスたちがいる。父がいる。そして——ルーレンスがいる。
ウェステリアは、月明かりの中で静かに息を吐いた。
前に進む力が、確かに戻ってきていた。
** *
ルーレンスがエヴァンスへの買収打診を行ったのは、それから三日後のことだった。
交渉の場には、ルーレンスの顧問弁護士が同席した。
ウェステリアは、その場にはいなかった。
エヴァンスがウェステリアの名前を聞いた瞬間に感情的になることが予想されたため、まずルーレンスが単独で話を進めることにしたのだ。
その夜、ルーレンスからウェステリアに報告が届いた。
***
「最初、彼は激しく抵抗したよ」
翌朝、ルーレンスの屋敷の書斎で、ルーレンスは静かに報告した。
「商会は売らない、お前たちに渡してなるものか、と。ただ、弁護士が現在の商会の状況を淡々と説明すると、だんだん黙り込んでいった」
「どのような説明を」
「取引先のうち、すでに三社が契約の見直しを通告してきていること。従業員の大半がボイコット中で、業務が実質停止していること。このまま放置すれば、商会の負債が資産を上回る可能性があること」
ウェステリアは、静かに聞いていた。
「それでもエヴァンスは、すぐには首を縦に振らなかった。自分が経営を立て直せると強がってたんだ。しかし弁護士が、あなたの名前を出した時——」
「私の名前を?」
「経営の立て直しには、商会の実務を知り尽くした人材が必要だ。しかし現状、それができる人間はウェステリア・ハミルトン夫人しかいない。その彼女はもうここにはいない——そう言うと、エヴァンスはようやく私の意図を理解したようだった」
ウェステリアは、少しの間、何も言えなかった。
皮肉な話だと思った。追い出したのは自分でありながら、いなくなって初めてその価値がわかる。しかしそれを声に出すことはしなかった。
「最終的には?」
「三日間の猶予をくれと言われている。おそらく、他に買い手を探すか、あるいは独自に立て直す最後の手段を模索するか。どちらにしても、選択肢はないだろう」
「そうですね」
ウェステリアは頷いた。
「彼が今から動いても、商会の信用を取り戻すには時間がかかりすぎる」
「三日後に、改めて回答をもらいます」
***
三日間、ウェステリアは待った。
その間、トーマスたちと連絡を取り合いながら、買収後の体制について具体的な準備を進めていた。
どの取引先から優先的に関係修復に動くか、船舶の点検をどの順番で行うか、従業員の役割分担をどう再編するか
——実務の話を詰めていくと、ウェステリアの頭は自然とはっきりしてきた。
これが、自分の得意なことだ。
考えるべきことが目の前に積み上がっている時、ウェステリアは最も落ち着いていられる。
「奥様、本当に戻ってきてくださるのですか」
三日目の夕方、トーマスが確認するように聞いた。
「ええ」
ウェステリアは、迷いなく答えた。
「今度は、私の名前で」
トーマスは、長年勤めたその顔に、初めてくしゃりとした笑みを浮かべた。横でマーガレットが目を潤ませ、ジャックとサイモンが顔を見合わせて喜んだ。
ウェステリアは、その光景を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。




