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第9話「親友の涙」

 雨はまだ降っていた。九月の雨は冷たくて、教室の窓ガラスに張りつく雫が、まるで誰かの書きかけた文字みたいに見える。詩織は三時間目の英語の授業を聞きながら、一つ前の席──千里の空席を見つめていた。

 千里は今日も遅刻だった。昨日の放課後、屋上で声を出すのをやめた千里。あの時、背中に食い込んだ千里の指の力を、詩織はまだ覚えている。爪が制服の布越しに皮膚に跡をつけるくらい、強く。


 四時間目が始まる直前に、千里が教室に入ってきた。

 マスクをしていた。風邪でもないのにマスクをして、前髪を深く下ろして、まるで顔ごと隠してしまいたいみたいに。詩織と目が合った瞬間、千里は小さく手を振った。いつもの仕草。でもいつもなら「詩織ー!」という声がセットのはずで、その声がないことが、教室の空気に穴を開けている。

 千里が自分の席に座る。ポケットからスマホを取り出して、画面をこちらに向けた。


『ごめん、おそくなった! 今日はマスクで防御力MAXだよ(笑)』


 絵文字つきの文字列が、いつもの千里の声の代わりだった。詩織は笑って見せた。口角を上げて、目を少し細めて。何百回と鏡の前で練習した、誰も傷つけない笑顔。


「大丈夫だよ、千里。マスク似合ってるし」


 千里がマスクの下で笑ったのがわかった。目尻が下がったから。でもその目の下にはくっきりと隈が刻まれていて、昨日の夜もきっと眠れなかったんだろうなと、詩織の胸が軋んだ。


 昼休みになった。千里がスマホの画面で会話する不便さを感じさせまいと、詩織は屋上ではなく人の少ない渡り廊下のベンチを選んだ。並んで弁当を開く。翠が今朝作った卵焼きは少し焦げていて、それは母がまた寝不足だったことの証拠だった。

 千里がスマホでぽちぽちと打つ。


『詩織の卵焼き、こげてるね。おかあさん大丈夫?』

「うん、最近忙しいみたいで」


 嘘の味はもうしない。何度も何度も繰り返した種類の嘘だから、舌が痺れてしまっている。

 千里は弁当に手をつけず、箸を握ったまま動かない。マスクが邪魔で食べられない。でもマスクを外したら、口が勝手に動いてしまうかもしれない。その恐怖が千里の指先を白くさせている。


「千里、食べなよ。わたしだけ食べてるの寂しいし」


 千里が少し迷ってから、マスクの片側だけをずらして卵焼きを口に運んだ。もぐもぐと咀嚼する音が、雨音に混じって妙に温かい。


『おいしい。うちのよりしょっぱいけど』

「千里んちは甘い派だもんね」


 スマホ越しのいつもの会話。文字になった千里の言葉は反転しない。画面の中でなら千里は千里のままでいられる。ただ、文字を打つ指がときどき震えていることに、詩織は気づかないふりをした。


 五時間目が始まる前だった。

 廊下で、千里が同じクラスの男子──田中くんとすれ違った。田中くんが何気なく「藤宮、今日マスクしてんだ。風邪?」と声をかけた。千里はスマホを出す暇がなくて、反射的にかぶりを振った。首を横に振るだけ。それだけならよかった。

 でも田中くんは親切な人間だった。親切な人間は、時として残酷だ。


「え、風邪じゃないの? なんかあった? 大丈夫?」


 三つの質問が矢継ぎ早に飛んできて、千里の唇が震えた。答えなきゃ、という義務感が口をこじ開ける。マスクの下で千里の唇が動いて──


「うるさい。話しかけないで」


 千里の目が見開かれた。自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いている。田中くんも一瞬固まって、それから少し傷ついた顔をして「あ、ごめん」と去っていった。千里がその背中に手を伸ばしかけて、止めた。手を伸ばしても、口を開けばまた違う言葉が出る。

 詩織は千里の手を掴んだ。


「大丈夫。田中くんにはわたしからあとで説明するから」


 何を説明するというのか。友達が原因不明の言語障害にかかりましたとでも言うのか。でもそれ以外に言える言葉がなくて、詩織は千里の冷たい手を握ったまま、嘘を上塗りした。


 放課後。雨脚が強まって、窓の外が灰色の幕に覆われていた。教室にはまだ数人が残っていて、千里は帰り支度をしながら詩織を待っていた。

 美咲が千里に近づいた。


「千里ちゃん、今日の掃除当番って明日に変えてもらえない? わたし今日バイトでさ」


 千里がスマホを取り出そうとした。でも、美咲は返事を待てない性格だった。千里が画面を打つより早く「ね、いいでしょ?」と畳みかける。千里の口が開く。マスクを外していないのに、声だけが漏れた。


「嫌。自分でやれば」


 千里が両手で口を押さえた。目が潤んでいる。美咲が「は?」と眉を寄せる。


「ちょっと、何その言い方。頼んでるだけじゃん」


 千里が首を振る。違う、違うの、と言いたいのに声が出せない。出したらまた裏返る。スマホを打とうとする手がぶるぶる震えて、文字が打てない。画面に指が滑るだけで、何も入力できない。

 詩織が間に入った。


「ごめん美咲ちゃん、千里今日ちょっと喉の調子悪くて。掃除当番のことはわたしが代わるから」


 美咲が不満そうな顔をしつつ「まあ、いいけど」と去っていく。千里がマスクの下で唇を噛んでいるのが、布地の動きでわかった。


 二人で昇降口に向かう途中だった。千里がマスクを少しずらして、何かを言おうとした。声を出さないように、ささやくように。


「しお……り」


 名前だけは、反転しなかった。詩織が振り向くと、千里の目から涙がぽろぽろとこぼれていた。雨で冷えた廊下の空気が、その涙を容赦なく冷やしていく。


「詩織、わた、し」


 千里が何かを伝えようとしていた。口が動く。声が出る。そして。


「大嫌い」


 千里の手が自分の口を叩いた。ぱしん、と乾いた音がした。


「消えて」


 もう一度叩く。


「あんたなんかいなければよかった」


 千里が泣きながら首を振っている。マスクがずれて、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっているのが見える。違う、これはわたしの言葉じゃない。千里の目がそう叫んでいるのに、口からは全く別の言葉が溢れ続ける。


「迷惑なの。いつもいつも優しいふりして、本当はわたしのこと見下してるくせに」


 昇降口に残っていた何人かが振り向いた。千里の声は普段より大きくて、反転した言葉は感情に比例して鋭さを増していく。詩織の胸に、一言一言が釘のように打ち込まれていく。

 見下してなんかいない。そんなこと思ったこともない。わかっている、これは千里の本心じゃない。昨日の屋上で千里の指が背中に残した跡を、まだ感じている。でも、言葉はたとえ嘘でも、耳に入った瞬間に心を削る。慰めの言葉を百個知っていても、この痛みは止められない。


「偽善者。友達なんかじゃない。最初からずっと」

「千里」


 詩織は千里の両肩に手を置いた。震えていた。千里の肩も、自分の手も。周囲の視線が刺さっていた。遠巻きにスマホを構えようとした誰かがいた気がしたけれど、今はどうでもよかった。


「わたし聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」


 千里の口からまだ言葉が溢れている。「うざい」「気持ち悪い」「近寄らないで」。どれも千里の声で、千里の口から出ていて、でも千里の言葉じゃない。壊れたラジオが間違った周波数を拾い続けているみたいに、千里の中で何かが狂っている。

 右腕の文字が焼けるように熱い。お守りがポケットの中で脈打っている。空の遠い場所で、昨日と同じ、世界の骨格が軋む音がする。

 千里が崩れ落ちた。膝から力が抜けて、冷たいリノリウムの床に座り込む。両手で顔を覆って、嗚咽だけが漏れた。言葉はもう出てこない。泣くことで口を塞いでいるのか、それとも泣くことだけが反転しない唯一の表現なのか。

 詩織は千里の隣にしゃがみ込んで、そっと背中に手を回した。制服の背中は雨の湿気を吸って冷たくて、その下にある千里の体温だけが確かだった。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 嘘だった。全然大丈夫じゃない。千里が何を言っても反転するなら、詩織に何ができるのか。慰めても寄り添っても、千里の壊れた言葉は直せない。でも他に何ができる? 言葉を持たない人間に、何ができる?

 千里の手が詩織の制服の裾を掴んだ。昨日と同じ。声が使えないから指で伝えている。行かないで。ここにいて。裾を握る力だけが、反転しない千里の本音だった。

 詩織はその手の上に自分の手を重ねた。


「ここにいるよ」


 それだけは嘘じゃなかった。ポケットの中のお守りが、心臓と同じリズムで温かく脈打っている。何もできない。何も言えない。でも、ここにいることだけは本当だった。


 教室棟の廊下から、担任の先生の足音が近づいてきた。誰かが呼びにいったのだろう。先生が「藤宮、大丈夫か」と声をかけ、保健室に連れていこうとする。千里が詩織の裾をきつく握ったまま離さなくて、結局二人一緒に保健室まで歩いた。

 保健室のベッドに横になった千里は、詩織の手を握ったまま眠った。泣き疲れた頬には涙の跡が光っていて、マスクは首元まで下がっていて、少し開いた唇からは穏やかな寝息だけが聞こえた。眠っている間は、言葉は反転しない。夢の中でなら、千里は千里の言葉を取り戻せるのだろうか。


 窓の外で、雨が止む気配はなかった。詩織は千里の手を握ったまま、右腕の文字を見つめた。《あなたの声が必要です》。嘘だ、とまた思った。わたしの声なんか何の役にも立たない。千里の言葉一つ守れないのに。

 でも、この温もりだけは嘘じゃない。手を握ること。隣にいること。声にならない声で「大丈夫」と祈ること。言葉が壊れた世界で、残された最後の通信手段は、たぶん体温だった。

 保健室の時計が五時を指した。千里の手がゆるく詩織の指を握り返した。眠ったまま。まるで、夢の中からでも繋がっていたいと言うみたいに。

 詩織は泣かなかった。泣く言葉が見つからなかったから。その代わり、千里の手をもう少しだけ強く握って、誰にも聞こえない声で呟いた。


「絶対、なんとかするから」


 約束できる根拠なんて何もない。力もない。でもその言葉だけは、灰色にも黒にも濁らなかった気がした。

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