第8話「言葉が反転する」
放課後の空は、水彩絵具を雑に溶かしたみたいな茜色をしていた。九月も中旬に差しかかって、日が落ちるのがずいぶん早くなっている。詩織は千里と並んで通学路を歩いていた。影が長く伸びて、二人分のシルエットがアスファルトの上でゆらゆら揺れる。
「でさ、詩織、明日の体育ってマラソンだっけ?」
「うん、たぶん。先週そう言ってたよね」
「最悪〜。わたし走るの嫌いなんだけど。三周でいいって言ってたのに五周になったし、もう足がストライキ起こすって」
千里がぶうぶう文句を垂れながら、鞄のストラップをぶんぶん振り回す。その動きに合わせて、キーホルダーのくまのぬいぐるみがせわしなく踊った。いつもの光景。いつもの帰り道。ここ数日の不穏な空気がまるで嘘みたいに、千里の声は明るくてあたたかい。
「詩織は走るの得意だもんね。ずるい」
「得意ってほどじゃないよ。ただ遅くないだけ」
「それを得意って言うの! わたしなんか最後尾よ最後尾。ゴールした時にはもう先生が片付け始めてるっていう」
詩織は小さく笑った。千里のくだらない愚痴を聞いている時間が好きだ。何も考えなくていい。何も選ばなくていい。ただ相槌を打ってたまに笑えば、世界は丸く回ってくれる。
「ねえ詩織、明日の──ぇあgkっ」
千里の声が、壊れた。
まるでラジオのチューニングがずれたみたいに、言葉の途中で音がぐしゃりと潰れた。千里は目を丸くして、自分の口元を右手で押さえる。
「え?」
「ご、ごめん。噛んじゃった。あはは、今のすごくなかった? 自分でもびっくりした」
千里が照れ笑いを浮かべる。唇の端がひくひく震えているのを、詩織は見逃さなかった。けれど千里が笑っているのだから、自分も笑わなければ。
「うん、すごい噛み方だったね。新記録かも」
「やめてよ〜、恥ずかしい」
千里が頬を膨らませて詩織の肩をぽすぽす叩く。柔らかい手のひらの感触。ちょっと冷たい。九月の夕風が、制服のスカートの裾をさらった。
右腕が、じわりと熱を持った。
制服の長袖を通して伝わるその温度に、詩織は唇を引き結ぶ。ここ数日ですっかり馴染んでしまった、あの嫌な感覚だった。文字が歪む時、腕が反応する。パン屋の看板。コンビニのポップ。教科書の活字。そしていまの千里の声。
気のせいだ。ただ噛んだだけ。
詩織はポケットの中でお守りを握った。温かさが指先に滲む。心臓と同じリズムで、布越しに何かが脈打っている。
「あ、見て詩織。あそこの猫」
千里が商店街の角を指さした。段ボールの上で丸くなった三毛猫が、半目でこちらを眺めている。
「かわいい〜。ちょっと撫でてく?」
「千里、また遅くなるよ」
「一分だけ! 一分だけだから!」
千里が駆け寄って、猫の頭をそっと撫でる。猫は迷惑そうに耳を伏せたが、逃げはしなかった。千里の横顔は穏やかで夕陽の橙色に染まっていて、その輪郭がほんの少しだけ滲んで見えた。
まるで、水に落とした墨みたいに。
詩織は瞬きした。滲みは消えていた。
「行こ、千里」
「はーい」
二人はまた歩き出す。千里のキーホルダーが、からから鳴った。
翌朝は、雨だった。
九月十二日、金曜日。週の終わり。教室の窓を打つ雨粒が、灰色の空をぼやけた水玉模様に変えている。湿った空気が制服の襟にまとわりついて、首筋がじっとりする。詩織はいつもより五分早く教室に着いた。机の上に鞄を置き、椅子に座る。右腕の文字が、今朝からずっと温い。熱いのではなく、温い。風呂の残り湯に腕を浸けているような、曖昧な温度。
ざわざわ、と教室が騒がしくなる。クラスメイトたちが傘を畳みながら入ってくる。美咲が沙耶と一緒に笑いながら何か話している。二人の仲は持ち直したらしい。いや、詩織が仲裁したあの一件のおかげということになっているのだろう。二人とも詩織に手を振ってくる。詩織は笑顔を返した。口角を上げて、目を細めて。いつもの作業。
千里が来ない。
一時間目のチャイムが鳴っても、千里の席は空のままだった。
遅刻かな。
千里は朝に弱い。雨の日はなおさらだ。布団と千里の間には不可侵条約が結ばれていて、目覚ましの音ごときでは破られない。詩織は手元のノートの端に小さく猫の絵を描きながら、千里の遅刻を待つことにした。
二時間目が始まる頃、教室の後ろのドアが、がらり、と開いた。
「藤宮、遅刻だぞ」
数学の高橋先生が眼鏡の奥で目を細める。千里が「すみません」と頭を下げた。千里の顔色が白い。唇に血の気がない。目の下にうっすらと影ができている。
「大丈夫?」
千里が席に座った時、詩織は小声で聞いた。千里は頷いてノートを開く。だが、ペンを持つ手がかすかに震えているのが見えた。
三時間目の休み時間。詩織が千里の机に近づくと、千里はスマホを見つめていた。画面には何も映っていない。ロック画面のまま、ただ黒い画面を凝視している。
「千里?」
「あ……詩織」
千里が顔を上げた。笑おうとした。が、その笑顔は詩織の見慣れたものとは違っていた。口角が上がっているのに、目が笑っていない。
わたしと同じ顔だ。
胸の奥がざわつく。
「ね、ちょっと屋上行かない?」
詩織が誘うと、千里は小さく頷いた。
屋上は雨だった。当たり前だ。二人は庇の下に立って、灰色の雨のカーテン越しに校庭を見下ろした。水たまりに雨粒が跳ねて、小さな王冠を次々に作っては壊していく。
「千里、なんかあった?」
千里はしばらく黙っていた。雨の音だけが二人の間を埋めている。やがて千里が口を開いた。
「……詩織、今朝ね、お母さんに『おはよう』って言おうとしたの」
「うん」
「そしたら『さようなら』って出てきた」
詩織は、千里の横顔を見た。千里は雨を見つめたまま、唇を噛んでいる。
「最初は寝ぼけてるのかなって思った。だからもう一回言い直したの。『おはよう』って。そしたら」
千里の声が震えた。
「また『さようなら』って。三回やっても四回やっても、口から出てくるのは全部『さようなら』だった」
雨音が急に遠くなった気がした。詩織の右腕の文字が、ずくん、と脈打つ。温さが一段上がる。
「お母さん、すごい顔してた。わたしがふざけてると思ったのかな、怒って──わたしも怖くなって、それきり何も言えなくなって」
千里が自分の喉元を、右手で押さえた。まるでそこに何か詰まっているかのように。
「学校に来る途中もおかしかった。コンビニで『ありがとうございます』って言おうとしたら『邪魔です』って出てきちゃって、店員さん、すごいびっくりした顔して……」
詩織は千里の手を取った。冷たい。指先が氷みたいだ。
「千里」
「ねえ詩織、わたしの言葉がおかしいの。言いたいことと違うことが」
千里の瞳が揺れる。恐怖で潤んだ目が、詩織を真っ直ぐに見た。
「違うことが、口からっ」
千里が言葉を飲み込んだ。顎が震えている。何かを言おうとして、喉の奥で押し殺す。また言おうとする。止める。その繰り返し。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
詩織は千里の手を両手で包んだ。握り返してくる力が、痛いくらい強い。
「詩織、わたし──助けっ」
千里の唇が動く。
そこから零れたのは、詩織が聞いたこともないような冷たい声だった。
「あんたなんかに用はない」
千里の目が、大きく見開かれた。自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いている。千里が激しく首を振る。両手が詩織の手の中でがたがた震えている。
「ちが──違うの、わたしそんなこと」
「わかってる。わかってるよ、千里」
詩織は千里を抱き寄せた。千里の体は震えていた。細い肩が、制服越しにかたかたと音を立てるほどに。
「詩織、わたし、怖い」
その言葉は、反転しなかった。震えて、掠れて、壊れそうに細い声だったけれど、「怖い」はちゃんと「怖い」のまま届いた。
けれどそれは、ほんの一瞬だけだった。
「詩織、お願い、」
千里の唇が歪む。何かに絡め取られるように、声が別のかたちに捻じ曲げられていく。
「来ないで。どっか行って。わたしに近づかないで」
千里が口を押さえた。涙が頬を伝って、顎から雫になって落ちる。首を横に何度も何度も振りながら、千里は声を出すのをやめた。もう何を言っても、反転する。助けを求める言葉が拒絶に変わり、感謝が罵倒に変わる。
言葉が、敵になっている。
詩織の右腕が焼けるように熱い。制服の袖の下で、刻まれた文字が明滅している。お守りが胸ポケットの中で激しく脈打つ。心臓と、文字と、お守り。三つが同じリズムで警鐘を鳴らしている。
詩織は千里を抱きしめたまま、何を言えばいいのかわからなかった。「大丈夫」は嘘になる。「治るよ」も嘘になる。慰めの言葉を百個知っていても、今この瞬間、どれ一つとして千里を救えない。
だから詩織は、ただ腕に力を込めた。
言葉にできないなら、せめて体温だけでも。千里の震える肩に自分の額を押しつけて、雨音に紛れるくらい小さな声で囁いた。
「ここにいるから。ここにいるからね」
千里は声を出さなかった。ただ、詩織の制服の背中を掴む指が、きつく、きつく食い込んだ。
屋上に降る雨は止まない。灰色の空の、ずっと遠くの、ずっと高いどこかで何かが軋む音がした。世界の骨格が歪むような、低くて重い、耳の奥に残る音。
右腕の文字が、じくじくと燃えていた。




