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第7話「壊れ始めた日常」

 目覚まし時計が鳴るより三十秒早く、詩織の目は開いた。枕元のお守りが、心臓と同じリズムでとくとくと脈打っている。生成り色の布地の隙間から漏れる光は、夜明けの薄闇の中ではっきりと見て取れた。

 右腕の文字も、それに応えるように明滅している。

 あなたの声が必要です。

 昨夜と同じ温もり。昨夜と同じ嘘みたいな言葉。詩織はお守りを制服のスカートのポケットに滑り込ませ、ベッドから降りた。フローリングの冷たさが足裏を刺す。九月も半ばに差し掛かろうというのに、朝の空気はまだ夏の名残を含んでいて、カーテンの隙間から差す光は白っぽく、どこか落ち着かない色をしていた。


 リビングに降りると、翠がキッチンに立っていた。フライパンの上で目玉焼きがぱちぱちと跳ねている。翠の背中は、いつもより少しだけ丸まって見えた。


「おはよう、詩織。今日も暑くなるみたいよ」


 振り返った翠の目の下には、昨日より濃い隈が刻まれている。でも声は明るい。詩織は知っている。自分と同じ技術だ。口角を上げて、声のトーンを半音上げて、目尻に皺を寄せる。桐谷家の女は、揃いも揃って嘘が上手い。


「おはよう、お母さん。わあ、目玉焼き半熟だ。ありがとう」


 嘘ではない。半熟の目玉焼きは本当に好きだ。でも「ありがとう」の裏側に(昨夜、誰に電話しようとしたの)と聞きたい言葉が張り付いていて、それを飲み込む感触はもう慣れたものだった。味がしない種類の嘘。何百回も繰り返して舌が麻痺した、いつもの朝。

 翠が詩織の腕にちらりと視線を落とした。長袖のブレザーの下に隠された文字を、布越しに透かし見ようとするように。だがすぐに目を逸らし「お弁当、玄関に置いておくからね」と背を向けた。

 じゃがいもの煮物の甘い匂いが、昨夜の肉じゃがの残りだと教えてくれる。砂糖が多い、父の好きだった味付け。詩織はそれ以上何も聞かず「行ってきます」と玄関を出た。


 通学路の景色は、いつもと同じはずだった。

 駅前のパン屋の看板、コンビニの張り紙、電柱に貼られた不動産広告。毎朝見慣れた文字の羅列が、詩織の視界の中で息をしている。

 ような、気がする。

 パン屋の「焼きたて」の「焼」の字が、一瞬だけ右に傾いだ。まばたきすると元に戻っている。コンビニの「新発売」の「発」が、ぐにゃりと溶けたように見えて、もう一度見るとちゃんと四角い活字のままだ。右腕がかすかに熱を持つ。昨日、街中で見た歪みと同じだ。

 気のせいだ、と詩織は自分に言い聞かせた。お守りがポケットの中でとくりと脈打ったが、それも気のせいだということにした。


 改札を抜けたところで、千里が待っていた。


「詩織ー! おはよー!」


 腕を振り回しながら駆け寄ってくる千里は、昨日と変わらない。ポニーテールが揺れて、笑うと八重歯が覗いて、スカートのプリーツが朝日を弾いている。詩織の胸がほんの少しだけ軽くなる。千里の前でだけは、笑顔に力を入れなくていい。


「おはよう、千里」

「ねえねえ、聞いてよ。今朝うちのテレビがさ、字幕おかしくなってたの。お母さんが録画してた韓ドラ見てたらいきなり字幕がぐっちゃぐちゃになって、お母さん大激怒。リモコン投げてたよ」


 千里はけらけら笑いながら言ったが、詩織の足が一瞬止まった。


「字幕が……おかしく?」

「そうそう。なんか文字化けっていうの? 漢字がぜんぶ記号みたいになっちゃって。チャンネル変えたら直ったんだけどね。最近多くない? こういうの」


 電車に乗り込みながら、千里がスマホの画面を見せてくる。SNSのタイムラインに「テレビの字幕バグってない?」「うちも!」「放送事故?」という投稿が並んでいた。詩織は吊り革を握る手に力を込めた。右腕の文字がじわりと熱い。


「気のせいじゃない? 電波の調子が悪いとか」

「だよねー。お母さんに言ったら『アンテナが古いのよ!』って怒ってたし」


 千里はあっさり納得して、話題を昨日の宿題に切り替えた。詩織は相槌を打ちながら、車内の中吊り広告に目を走らせた。週刊誌の見出し、脱毛サロンのキャッチコピー、予備校の合格実績。どの文字もきちんと読める。歪んでいない。でも右腕だけが、まるで何かを感知するアンテナのように、じんじんと熱を放ち続けていた。


 一時間目は現代文だった。

 黒板の前に立つ山岸先生は、五十代の小柄な女性で、チョークを握る手つきがいつも優雅だった。今日の教材は太宰治の「人間失格」。先生がすらすらと板書を始める。


「では七十二ページ、第三の手記の冒頭から」


 チョークが黒板を滑る音。白い文字が並んでいく。詩織はノートにペンを走らせながら、ふと顔を上げた。

 板書の「恥」の字が、一瞬だけ別の字に見えた。何の字だったのかは分からない。ただ、字の形がぐにゃりと歪んで、元に戻った。クラスメイトは誰も気づいていない。美咲は窓の外を見ているし、沙耶はノートに何か落書きしているし、千里はちゃんと前を向いて板書を写している。

 山岸先生のチョークが止まった。


「あれ」


 先生が首を傾げる。書きかけの一文の途中で、手が止まっている。


「えっと……次の字が、出てこないわ。ごめんなさいね、ど忘れ」


 教室にくすくすと笑いが起きる。先生は照れたように笑って教科書を確認し「あら、こんな簡単な字を。歳ね」と冗談めかして書き直した。ただの物忘れ。よくあること。

 でも詩織だけが見ていた。先生が教科書を確認した瞬間、教科書のページの文字が、ほんの一秒だけノイズのように震えたことを。


 昼休み、詩織と千里は屋上に上がった。九月の日差しはまだ強く、コンクリートの床が焼けるような熱を放っている。日陰を探してフェンス際に座り、弁当箱を広げた。翠の弁当は今日も彩りがいい。卵焼きは甘め、ミニトマトが二つ、唐揚げにレモンが添えてある。


「あ、やば。今朝のニュース見た?」


 千里がスマホを片手に卵焼きを頬張りながら言う。


「ニュース?」

「なんかね、特定の地域で言語障害が多発してるんだって。急に言葉が出てこなくなったり、文字が読めなくなったりする人が増えてるらしいよ。原因不明だって」


 千里がニュースサイトの記事を見せてくる。詩織はスマホの画面を覗き込んだ。『関東圏で原因不明の言語障害が多発 専門家も困惑』という見出し。記事によれば、この一週間で数十件の報告があり、症状は一時的な失語から文字の認識障害まで様々だという。


「へえ……怖いね」


 声は平静を装ったが、胸の奥がざわついた。右腕の文字。看板の歪み。先生のど忘れ。テレビの字幕の文字化け。全部が一本の糸で繋がっているような気がして、その糸の先を辿るのが怖かった。


「ストレスとかかなあ。最近暑いし」


 千里はのんきに言って、唐揚げに手を伸ばした。詩織は「そうかもね」と笑った。灰色に濁る種類の笑顔。千里には見えない色だ。


 五時間目の英語の授業中、さらに奇妙なことが起きた。

 英語教師の田中先生が単語テストの答え合わせをしていた。黒板にスペルを書いていく。「beautiful」──その途中で、先生のチョークが止まった。


「b-e-a-u-t-i──あれ? fだっけ、pだっけ」


 今度は笑いが起きなかった。田中先生は英語が専門だ。beautifulのスペルを間違えるような人ではない。先生自身も戸惑った顔をしている。


「ごめんごめん、昨日寝不足でさ。えーと、f-u-l、と。はい、これが正解ね」


 先生は取り繕ったが、その後も二回、簡単な単語で手が止まった。クラスの空気が少しだけぎこちなくなる。

 詩織は教科書に目を落とした。ページの上の英単語が整然と並んでいる。一つも歪んでいない。でも、視界の端で、活字がかすかに震えているような感覚がずっと付きまとっていた。


 放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、千里が隣にやってきた。


「ねえ詩織、今日なんか変じゃなかった? 山岸先生も田中先生もど忘れしてたし。テレビの字幕のこともあるしさ」


 千里の声に、いつもの呑気さとは違う響きが混じっている。不安、というほど強くはない。でも確かに、何かがおかしいと感じ取っている声だ。


「うーん、たまたまじゃないかな。先生たちも疲れてるんだよ、きっと」


 詩織は笑った。千里を安心させるための笑顔。得意な笑顔。何百回も繰り返した笑顔。


「そっかあ。まあそうだよね。じゃあまた明日ね!」


 千里は手を振って駆けていった。ポニーテールが左右に揺れる。その背中を見送りながら、詩織はスカートのポケットの中のお守りをぎゅっと握った。生成り色の布地が、掌の中で鼓動している。


 帰り道。

 商店街を抜ける道は、夕方の買い物客で賑わっていた。八百屋のおじさんの威勢のいい声、魚屋から漂う潮の匂い、クリーニング屋の窓から覗く白いシャツの列。詩織が毎日通るありふれた景色。

 だが今日は、その景色の中に小さなノイズが走った。

 八百屋の値札の「98」が、一瞬「89」に見えた。隣の薬局の「処方箋受付」の「処」が消えて「方箋受付」になった。魚屋の暖簾に染め抜かれた屋号の文字が、まるで水に濡れた墨のように滲んだ。

 全部、まばたきすれば元に戻る。

 全部、詩織にしか見えていない。

 右腕が、じりじりと熱い。心臓の鼓動に合わせて、文字が赤く脈打っている。袖をまくらなくても、布越しに熱が伝わってくるほどだった。


 足を速めた。逃げるように商店街を抜け、住宅街の坂道を上り、息を切らして自宅の玄関に飛び込んだ。靴を脱ぎ散らかして廊下を走り、自分の部屋に駆け込んでドアを閉める。ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

 白い天井。亀裂もない、染みもない、ただの天井。

 大丈夫。ここは大丈夫。文字は歪んでいない。

 ポケットからお守りを取り出す。掌に乗せると、温かさが指先から腕を伝い、右腕の文字の熱と混ざり合って、不思議と落ち着いてくる。二つの脈動がゆっくりと同期していく。

 目を閉じた。


「詩織、ごはんよー」


 階下から翠の声。詩織は目を開け、制服のまま立ち上がった。鏡の前で髪を直し、笑顔を確認する。口角を上げて、目を細めて、声のトーンを半音上げる。


「はーい」


 階段を降りながら思う。ニュースで言っていた言語障害。先生たちのど忘れ。テレビの字幕のバグ。街の文字の歪み。全部繋がっているとしたら。右腕のこの文字と関係があるのだとしたら。

 でも誰に言えばいい。千里に? 翠に?

 千里を怖がらせたくない。翠はたぶん何かを知っている。でも聞けない。聞いたらもう知らないふりはできなくなる。

 リビングのテーブルに着く。今夜のおかずは焼き鮭と味噌汁。翠が向かいに座り、テレビのリモコンを手に取った。


「あら、今日もニュースやってる。言語障害のこと」


 画面の中で、スーツ姿のアナウンサーが原稿を読み上げている。『本日新たに十二件の報告があり、累計は百件を超えました。症状は一時的なもので、深刻な後遺症は確認されていません。専門家は』

 アナウンサーが一瞬、言葉に詰まった。ほんの零コンマ数秒。すぐに立て直して原稿を読み続けたが、詩織は見逃さなかった。画面右下のテロップの文字が、ぶるっと震えたことも。


「怖いわねえ」


 翠が味噌汁をすすりながら言った。その声は平静だった。でも翠の箸は、焼き鮭の骨をつまんだまま動いていない。視線はテレビに向いているが、何も映していない目。何かを考えている目。何かを恐れている目。


「大丈夫だよ、お母さん。一時的なものだって」


 詩織は笑った。翠も笑った。

 嘘と嘘を交換する。いつもの夕食。いつもの桐谷家。

 ただ、テーブルの下で詩織の右手はスカートの布地を握りしめていた。文字は、まだ熱い。世界の文字が少しずつ壊れていくのを、詩織だけが感じている。そしてたぶん、翠もまた何かを感じている。

 二人とも口にしない。二人とも笑っている。

 壊れ始めた日常は、こんなふうに静かに軋む音を立てるのだと、詩織はこの夜初めて知った。

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