第6話「お守り」
夕飯の匂いがした。醤油とみりんが煮詰まった、甘くてしょっぱい湯気。肉じゃがだ、と詩織は玄関のドアを開ける前にわかった。翠の肉じゃがは少しだけ砂糖が多い。父がいた頃の味付けをそのまま引き継いでいるのだと、いつだったか翠が言っていた。父の記憶はもうほとんどない。砂糖の多い肉じゃがだけが、かろうじて父の輪郭を繋ぎ止めている。
「ただいま」
声を出すと、右腕がかすかに熱を帯びた。《あなたの声が必要です》。消えない文字が制服の袖の下で脈打っている。心臓と同じリズムで。まるで二つ目の心臓が腕に埋め込まれたみたいだと思うと、少しだけ気持ち悪い。
「おかえり。今日遅かったわね」
キッチンから翠の声がする。菜箸を持ったまま振り返る横顔に、目の下のくまが濃く滲んでいた。先週よりも、昨日よりも。翠は最近眠れていないのだろう。聞けばいいのに、聞けない。聞いたところで「大丈夫よ」と返されるに決まっている。桐谷家の女は揃いも揃って嘘つきだ。
「ちょっと千里と寄り道してた」
嘘。屋上にいた。空が割れるのを見た。腕に文字が刻まれた。そのどれも本当のことなのに、口から出てくるのは千里の名前を借りた作り話ばかり。もう何百回と繰り返した種類の嘘だから、舌の上で味すらしない。
「そう。手、洗っておいで。もうすぐできるから」
翠が鍋に向き直る。詩織はほっとして、その「ほっと」が、自分のことなのか翠のことなのかわからないまま、リビングを横切った。
ダイニングテーブルの角が、ブレザーの袖を引っかけた。
ただそれだけのことだった。テーブルの角なんて毎日避けている。今日だけ、ほんの二センチ、いつもより内側を通っただけ。カフスのボタンが外れて、袖口がめくれ上がる。
白い蛍光灯の下に、右腕の内側が晒された。
手首から肘にかけて、皮膚の下から浮かび上がるように光る文字列。ひらがなと漢字が入り混じった、ペンでは書けない種類の輝き。心臓の鼓動に合わせて、淡く、淡く、明滅している。
「詩織、先にお味噌汁」
翠が振り返った。
菜箸が、床に落ちた。木と木がぶつかる乾いた音が、やけに大きく響いた。
「あ、これ」
詩織は反射的に袖を引き下ろそうとした。ペンで書いた、と言えばいい。落書きだよ、と笑えばいい。いつものように、いつもの嘘を、いつもの笑顔で。
できなかった。
翠の目が、文字を見ていた。正確には、文字を「読んで」いた。初めて見るものを見る目ではなかった。知っているものを、かつて見たことのあるものを、二度と見たくなかったものを、もう一度突きつけられた人間の目。瞳孔がわずかに開いて、それから急速に縮む。恐怖。口元が引き結ばれる。後悔。そして、何かを飲み込むように喉が動く。覚悟。三つの感情が翠の顔を順番に通り過ぎていくのを、詩織はスローモーションのように見つめていた。
「お母さん?」
翠の手が震えていた。膝をかばうようにキッチンカウンターに手をついて、それでも止まらない。指先が白くなるほど天板を握っている。
「……何でもないわ」
嘘だ。
わかる。だって、桐谷家の女は揃いも揃って嘘つきだから。
翠の「何でもない」は、詩織の「大丈夫」と同じ味がする。舌に乗せた瞬間に溶けて消える、栄養のない飴玉みたいな嘘。お互いにそれが嘘だとわかっていて、お互いにそれを指摘しない。桐谷家のルールだ。暗黙の、でもとても頑丈なルール。
「ペンで、ちょっと書いちゃって」
詩織も嘘をついた。翠の「何でもない」に応えるように。嘘と嘘を交換して、二人とも知らないふりをする。いつもの儀式。
「そう。……ご飯にしましょう」
翠が菜箸を拾い上げた。指がまだ震えている。拾った菜箸の先が小刻みに揺れて、鍋の縁に当たるたびにかちかちと音を立てた。
肉じゃがの湯気が天井に向かって昇っていく。甘い匂いが部屋を満たしているのに、空気はひどく冷たかった。
夕食は静かだった。いつもの静かさとは違う。いつもは翠が「学校どうだった?」と聞いて、詩織が「楽しかったよ」と答えて、テレビのバラエティ番組が二人の沈黙を埋めてくれる。今日はテレビがついているのに、笑い声が遠い国の言語みたいに意味を持たない。翠の箸が何度も同じじゃがいもの角をつついていた。
「今日はどうだった?」
翠が聞いた。いつもより三十秒遅い「いつもの質問」。
「うん、楽しかったよ」
詩織が答えた。いつもと同じ「いつもの嘘」。
テレビの中で誰かが転んで、観客が笑っている。翠が味噌汁を啜る音。時計の秒針。冷蔵庫のモーター音。全部聞こえるのに、全部どこか遠い。
食器を洗い終えて、詩織は自室に引き上げた。制服のまま、ベッドに倒れ込む。仰向けになって右腕を持ち上げると、蛍光灯の光を透かすように文字が脈打っていた。
《あなたの声が必要です。世界を救うために》
嘘だ。
わたしの声なんか、誰にも必要とされていない。この文字がどこから来たのか知らないけれど、わたしを選んだのは間違いだ。わたしには中身がない。言いたいことがない。声に輪郭がない。風船みたいに膨らんでいるだけで、中には何も入っていない。
なのに、文字は温かい。
嘘のくせに、温かい。その温もりに縋りたくなる自分が、少しだけ情けなかった。
ノックの音がした。こんこん、と二回。翠のノックはいつも二回。
「詩織、起きてる?」
「うん」
ドアが開いた。翠がパジャマ姿で立っている。右手に何かを握っていた。小さくて、古びたもの。
「ちょっと、いい?」
翠がベッドの端に腰を下ろした。マットレスが沈んで、翠の体重の分だけ詩織の体が傾く。翠からシャンプーの匂いがした。いつもと同じ、薬局で買える安いシャンプー。でも今日はその匂いの奥に、かすかに汗の気配がある。緊張の汗だ。
「これ」
翠が右手を開いた。掌の上に、小さなお守りが乗っていた。
布製の、きんちゃく型。元は白だったのだろうが、長い年月で生成り色に変わっている。表面に刺繍があるが、糸がほつれてもう何の模様だったかわからない。角が擦り切れ、紐の先端のほつれを誰かが丁寧に結び直した跡がある。何度も、何度も。
「お母さんが昔から大切にしてたものなの」
翠の声は穏やかだった。穏やかすぎた。嵐の前に空が静まり返るときの、あの不自然な凪に似ていた。
「詩織に持っていてほしい」
「……どうして?」
翠が微笑んだ。いつもの微笑み。でも、目が笑っていなかった。
「おまじないみたいなものよ。お母さんも、昔大変だった時にこれに助けてもらったから」
詩織はお守りを受け取った。掌に乗せた瞬間、温かさが指先から染み込んできた。右腕の文字と同じ種類の温もり。体温とは違う、もっと内側の骨の髄を温めるような静かな熱。お守りの中で何かが微かに光っている気がした。布越しにうっすらと、蛍の腹みたいに。
「……温かい」
「そうでしょう」
翠がお守りを見つめる目が、ほんの一瞬だけ潤んだ。それを隠すように立ち上がり「おやすみ」と言ってドアに手をかける。
「お母さん」
翠が振り返った。
「ありがとう」
翠が頷いた。頷いただけで、何も言わなかった。ドアが閉まる。廊下を歩く足音が遠ざかる。詩織はお守りを胸の上に置いて、天井を見つめた。
お守りが心臓の上で温かく脈打っている。右腕の文字も脈打っている。二つのリズムが少しずつ近づいて、やがて重なる。とくん、とくん。三つの鼓動が一つになる。
安心する。理由はわからないけれど、今日見たものの全部。空の亀裂、光の文字、歪む看板、翠の震える手。その全部が少しだけ遠くなって、まぶたが重くなる。
詩織が眠りに落ちた後。
リビングの灯りだけがついていた。
翠がソファに座っている。テレビは消えている。膝の上でスマートフォンを握り、電話帳の画面を見つめていた。スクロールして止めたのは、登録名のない番号。十一桁の数字の羅列だけが表示されている。
翠の親指が、通話ボタンの上で止まった。
爪が白くなるほどスマートフォンを握りしめて、息を吸って、吐いて。もう一度吸って。
通話ボタンを押さなかった。
スマートフォンをテーブルに伏せて置く。画面が暗くなる。翠は両手で顔を覆った。指の隙間から、押し殺した声が漏れる。泣いているのか、笑っているのか、それとも叫びたいのを堪えているのか。どれにも聞こえて、どれでもないような音。
「……まさか、この子にまで」
翠の声は誰にも届かなかった。リビングの時計だけが、変わらない速度で秒を刻んでいる。蛍光灯が一度だけちらついて、また元に戻った。テーブルの上のスマートフォンの画面は、暗いまま。
肉じゃがの残り香だけが、静かな部屋に漂っていた。




