第5話「空が割れた日」
翌日の放課後、詩織は屋上にいた。千里は掃除当番で先に帰り、教室にも用事はなかった。ただなんとなく、ここに来た。九月の屋上は風が強い。スカートの裾を押さえながらフェンスの前に立つと、校庭で部活動に励む生徒たちの声が遠く聞こえた。掛け声、笑い声、ボールの弾む音。どれも活き活きとして、はっきりとした輪郭を持っている。
詩織の声には輪郭がない。誰の形にでもなれるけれど、自分の形を持たない水みたいな声。
風が吹いた。髪が顔にかかるのを手で押さえた。
誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな。
昨夜、心の中で呟いた言葉が、また喉の奥で震えた。飲み込もうとした。いつものように。でもフェンスの向こうに広がる空があまりにも広くて、あまりにも何も答えてくれなくて、その沈黙に耐えられなかった。
「誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな」
声が空に届いた、なんてそんなわけがない。
屋上のフェンスを握る指先が白くなっていることに気づいて、詩織は慌てて手を離した。九月の風が前髪をさらう。さっきまで口から飛び出していた言葉の残響が、まだ耳の奥にこびりついている。
誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな。
言ってしまった。声に、出してしまった。十七年間ずっと飲み込んできたものを、よりによって学校の屋上で、夕焼け空に向かって。青春映画のワンシーンみたいだ。笑える。全然笑えない。
頬が熱い。恥ずかしさで死にたくなる。もし今この瞬間を誰かに見られていたら、明日から「屋上で叫ぶ桐谷さん」というあだ名がつく。それだけは断固として阻止しなければならない。
周囲を見回す。人影はない。掃除当番の千里はとっくに帰った。部活の声も校舎の反対側から微かに聞こえるだけで、ここには詩織しかいない。
よし。セーフ。
安堵の息を吐いた、その時だった。
頭上で、ぱきん、と音がした。
氷にひびが入るような、あるいはガラスの表面を爪で引っ掻いたような、硬くて薄い音。詩織は反射的に見上げた。
夕焼けの空に、線が走っていた。
一本の細い亀裂。茜色のグラデーションを横切るように、空の表面が——表面という表現はおかしいけれど、他に言いようがなかった——裂けている。裂け目の奥から白い光が漏れていて、それは学校の蛍光灯とも太陽光とも違う、もっとずっと柔らかくて、温かくて、どこか懐かしいような光だった。
詩織は瞬きをした。二度、三度。目をこすってみた。消えない。
「……え」
光が、溢れた。
亀裂から零れ落ちた白い粒子が、粉雪のように降り注いでくる。屋上のコンクリートに、フェンスの金属に、詩織の制服の肩に、静かに、静かに落ちてくる。触れた場所にぬくもりだけを残して、粒子は弾けるように消える。痛みはない。熱くもない。秋の陽だまりに寝転がった時の、あのぽかぽかした感覚に似ていた。
そこで詩織は気づいた。粒子のひとつひとつが、文字の形をしている。
ひらがな、カタカナ、漢字。読めるもの、読めないもの。見たことのない書体で綴られた言葉の欠片が、詩織の周囲をぐるぐると渦を巻いている。スカートの裾を掠め、指の間をすり抜け、まつ毛の先をくすぐりながら、文字たちは意志を持っているかのように——いや、確かに意志を持って詩織の体を巡っていく。
「なに、これ……」
声が震えた。怖いのか。怖いはずだ。空が割れて文字が降ってくるなんて、正気の沙汰じゃない。今すぐ逃げるべきだ。階段を駆け下りて、靴を履いて、家に帰って、布団を被って、全部夢だったことにすべきだ。
なのに足が動かない。
文字の渦が温かすぎて、怖いという感覚が奥に引っ込んでしまう。母親に抱きしめられた記憶——もう随分昔の、小さかった頃の記憶——が不意によみがえって、詩織は泣きそうになった。泣きそうになった自分に驚いて、唇を噛んだ。
文字が集まり始めた。
散り散りに漂っていた粒子が、一箇所に収束していく。詩織の右腕。制服の袖の下、手首から肘にかけての内側に、文字たちが吸い込まれるように集まっていく。袖越しに白い光が透けて、布地がほんのり発光している。
詩織は左手で右の袖をめくった。
腕の内側に、文字が浮かんでいた。皮膚の上に直接書かれたように、いや、皮膚の下から浮かび上がるように、白く淡い光を放つ一行。
《あなたの声が必要です。世界を救うために》
ペンで書いたのとは違う。タトゥーとも違う。皮膚そのものが文字に変わったような、不思議な質感だった。指でなぞると、かすかなぬくもりを感じる。こすっても消えない。爪で引っ掻いてみても、文字はびくともしない。痛みもない。ただそこに、当たり前のように在る。
「世界を、救う……?」
思わず声に出して、自分で自分に突っ込みたくなった。世界を救う。わたしが。頼まれごとを断れないだけが取り柄の、本音ひとつ言えない桐谷詩織が。冗談としてもスケールが大きすぎる。
あなたの声が必要です。
声。わたしの声。さっき、空に向かって叫んだあの声のことだろうか。あんな情けない独り言が、空を割って文字を降らせたとでもいうのか。
頭上を見上げる。亀裂は、いつの間にか消えていた。夕焼けはゆっくりと色を失い、紺色の空が東の端から広がり始めている。粒子ももう降っていない。屋上にはいつも通りの風と、いつも通りの空気と、いつも通りの——右腕以外は——詩織だけが残っている。
夢じゃ、ない。
右腕の文字が微かに脈打つように明滅した。心臓の鼓動に合わせているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
詩織は袖を下ろした。ブレザーの袖口をきっちりと引っ張り、ボタンを留める。長袖でよかった。いや、よくない。よくないけど、とりあえず隠せる。隠せるということは、なかったことにできるということだ。
気のせいだった。疲れてたんだ。最近いろいろあったし。
自分に言い聞かせながら、鞄を拾い上げる。屋上のドアを開け、薄暗い階段を下りる。上履きから外履きに替えて、校門を出る。いつもの帰り道。いつもの景色。
のはずだった。
駅前のロータリーに差し掛かった時、右腕がかすかに熱を持った。同時に、視界の端で何かが揺れた。
コンビニの看板。黒地に緑とオレンジの帯。見慣れたロゴ。その文字がぐにゃり、と歪んだ。ほんの一瞬。まるで水面に映った文字を指で突いたみたいに、輪郭が崩れ、元の形に戻る。
足が止まった。
目を凝らす。看板の文字は何事もなかったように正しい形を保っている。見間違い。そうに決まってる。
歩き出す。横断歩道の信号が青に変わる。渡りながら、反対側の歩道にある不動産屋のガラスに貼られたチラシが目に入る。「駅チカ! 新築2LDK」の文字。その「新築」の「新」が、ぴくり、と痙攣した。一画目の横棒が下に垂れ、二画目がぐるりと回転して、瞬きすると元に戻っている。
右腕が、じわりと熱い。
気のせいだ。
詩織は歩く速度を上げた。
疲れてるんだ。
バス停の時刻表の数字が一瞬だけ入れ替わったように見えたけど、気のせい。薬局のポスターの「お肌にうるおい」が「お肌にうるさい」に見えたのも、気のせい。全部ぜんぶ、気のせいだ。
右腕がまた脈打つ。心臓とは違うリズムで。まるで何かが起きている方角を、指し示すように。
詩織は右腕を左手で押さえ、袖の上から強く握った。
「気のせい、気のせい……」
小さく呟きながら歩く。マンションのエントランスに辿り着いた時には、もう外は暗くなっていた。




