第10話「銀髪の転校生」
週末が、こんなに長いと思ったのは初めてだった。
土曜日も日曜日も、詩織は千里にメッセージを送り続けた。既読はつく。返事はスタンプだけ。ハートとか、笑顔とか、ピースサインとか。そういう、声を出さなくていい返事ばかりが画面に並んだ。
月曜日、保健室に顔を出した。千里はベッドの上で膝を抱えて、ノートに何か書いていた。詩織が入ると顔を上げて、ぱっと笑って、それからすぐに口を手で押さえた。笑顔は出る。声は出せない。その手のひらの向こう側で、千里の唇がかすかに動いたのが見えた。「おはよう」の形をしていた。
「おはよう、千里」
詩織は笑った。口角を三ミリ上げて、目尻を柔らかくして、声のトーンを半音上げる。いつもの手順。いつもの嘘。でも今日は——今日だけは——その笑顔の下にある感情がいつもと違った。怒りに似た何か。誰に向ければいいのかわからない、行き場のない熱。
千里がノートをくるりとこちらに向けた。丸っこい字で『詩織は授業でしょ! いいから行きなさい!』と書いてある。語尾に怒ったネコの絵文字つき。
詩織は小さく笑った。今度の笑顔には嘘の味がしなかった。
「わかった。お昼にまた来るね」
千里が大きく頷いて手を振る。その手が少しだけ震えていることに、詩織は気づかないふりをした。気づかないふりをする。それだけは得意だから。
教室に向かう廊下で、右腕がじんわりと熱を持った。制服の袖の下で、《あなたの声が必要です》の文字が心臓に合わせて明滅している。金曜日の夜に呟いた「絶対、なんとかする」という言葉が、まだ胸の底に沈んでいた。根拠はない。方法もない。でもあの言葉だけは嘘ではなかった。
教室の扉を開ける。月曜一限のざわめき。黒板には時間割の変更が書かれていて、数学が二時間に増えている。誰かの呪いか。
「おはよう、桐谷さん」
美咲が声をかけてきた。沙耶と一緒にいる。先週の仲裁騒動のことは、もう忘れたみたいだ。人の記憶って便利にできている。
「おはよう。二人とも元気?」
「元気元気。ていうかさ、千里ちゃん大丈夫? 金曜日すごかったよね」
美咲の声が少し低くなった。心配しているのか、それともネタにしているのか。たぶん両方。人間の感情はだいたい、そういうふうに不純物が混じっている。
「うん、ちょっと体調崩しちゃって。もうだいぶ良くなってるよ」
嘘。何ひとつ良くなっていない。でもその嘘は千里を守るための嘘で、詩織はそういう嘘なら迷わず吐ける。自分を守る嘘より、ずっと簡単に。
ホームルーム開始五分前。担任の前田先生が教室に入ってきた。その後ろに、見慣れない影がある。
「えー、急な話で申し訳ないんだけど、今日から転校生が来ます」
教室がざわつく。九月の半ばに転校生というのは、ドラマの第一話みたいだと誰かが囁いた。前田先生が「静かに」と手を叩いて、扉の外に声をかける。
「入ってきてください」
銀色だった。
最初に目に入ったのは、光を受けて白く煌めく髪。次に、それとは対照的に静かな碧い瞳。教室に一歩入ってきた瞬間、窓からの朝日がその横顔を照らして、詩織は一瞬だけ息を忘れた。
整った顔立ちは、男子にしては柔らかすぎて、だけど女子というには骨格がしっかりしている。中性的、という言葉がぴったりだった。白いシャツの襟がきちんとしていて、制服の着こなしが新品なのに不自然さがない。
「朝霧睡です。よろしくお願いします」
声がよく通った。低すぎず高すぎず、教室の隅々まで届くのに誰の耳にも刺さらない。そういう声だった。お辞儀の角度、視線の配り方、微笑みの深さ。全部が計算されている。
教室が沸いた。女子の何人かが小さく悲鳴のような声を上げ、男子は男子で「マジか」とか「ハーフ?」とか好き勝手に呟いている。転校生が美形だと、教室のテンションは簡単に三割増しになる。
前田先生がいくつか質問を促した。
「朝霧くん、前の学校はどこだったの?」
「関西の方です。父の仕事の都合で引っ越してきました」
「部活とか、何かやってた?」
「少しだけ弓道を。こちらでも続けられたらと思っています」
完璧だった。質問への回答が的確で、多すぎず少なすぎず、相手が次の質問をしやすい余白をちょうど残している。弓道というチョイスも絶妙だ。運動部だけどガツガツしすぎない。品がある。
嘘だ。
詩織はそれに気づいてしまった。
笑顔。目尻の下がり方。頬の筋肉の使い方。声のトーンの操り方。全部、詩織が毎朝鏡の前でやっていることと同じだ。ただし精度が段違いに高い。詩織の嘘が日曜大工だとしたら、あの転校生の嘘はプロの職人技。
周囲の誰も気づいていない。当然だ。嘘を見抜けるのは、同じ嘘をついている人間だけ。
「朝霧くんの席は、桐谷さんの隣が空いてるね。そこで」
詩織の心臓が不意に跳ねた。銀髪の転校生、朝霧睡が鞄を持ってこちらに歩いてくる。近づくにつれて、微かな匂いがした。雨上がりの森みたいな冷たくて清潔な匂い。
隣の椅子を引く。座る。鞄を机の横にかける。一連の動作に無駄がない。
「よろしく、桐谷さん」
睡が微笑んだ。教室中に配っていたのと同じ笑顔のはずだった。でも詩織の目には、その笑顔の奥にうっすらと疲労の影が見えた。目の下の、ファンデーションでは隠せない薄い隈。ああ、この人も眠れない夜を知っている人だ、と思った。
「よろしく、朝霧くん」
詩織も笑った。いつもの笑顔。いつもの嘘。
睡の碧い目が一瞬だけ細くなった。品定めをするような。いや違う、何かを確かめるような視線。それは詩織が千里の言葉を聞くときの目と、どこか似ていた。
一時間目が始まった。現代文。教科書の太宰治を読む先生の声が、やけに遠い。詩織はシャープペンシルをくるくる回しながら、隣の席をちらちらと横目で見た。睡はノートを取っている。綺麗な字。でもときどき、ペン先が紙の上で止まる。窓の外を見る。また書く。また止まる。
何を見ているんだろう。窓の外にはいつもの校庭と、体育の授業で走り回る一年生と、九月の空しかないのに。
いや。
詩織は目を凝らした。窓の向こう、空の高い場所で、世界がかすかに軋んでいるのが見えた。金曜日から何度も聞いた、あの音。空に走る細い皺のような歪み。
睡も、あれが見えているのだろうか。
昼休み、詩織は保健室に向かった。
ノックをして引き戸を開けると、ベッドの上で千里が両手を振っていた。声は出さない。白いマスクで口元を覆い、膝の上にはメモ帳とペンが用意されている。
千里がメモ帳をひらひらと掲げた。
『おひる! いっしょにたべよ!!』
丸っこい文字の横に、にっこりマークが三つ並んでいる。詩織は笑った。今度は本物の笑顔だった。千里の前だけは、口角の計算をしなくていい。
「うん。今日はサンドイッチ」
詩織がベッドの横の丸椅子に座り、鞄からお弁当箱を取り出す。千里は自分の弁当──翠が「千里ちゃんの分も」と持たせてくれたもの──を嬉しそうに開けた。
『たまごやき! みどりさんの! あまいやつ!!』
「甘すぎない? お母さんのやつ」
千里が首をぶんぶん横に振る。
その手が、ほんの少しだけ震えている。
詩織はそれに気づかないふりをして、卵焼きをひとつ千里の弁当箱に移した。
『ところで』
千里がペンを走らせる。文字の勢いが変わった。目がきらきらしている。
『てんこーせー!! イケメンて聞いた!! 写真! 写真くれ!!』
「……声出さなくてもうるさいね、千里は」
『性格の問題!! で、カッコいいの??』
詩織は少し考えた。睡の顔を思い浮かべる。端正で、中性的で、どこか作り物めいた美しさ。
「うん、カッコいいよ。すごく」
『きゃー!!(声出せないver) タイプは?? 詩織のタイプ??』
「そういうのじゃないって」
千里がメモ帳に巨大な「?」を書いて詩織の顔の前に突きつける。詩織は卵焼きを口に放り込んで、咀嚼を言い訳にして答えなかった。
タイプかどうかなんて、考える余裕はなかった。あの人は詩織の腕の文字を知っている。千里の症状を知っている。そして「もうひとつの世界」があるという、途方もないことを言った。
千里の手の震えを見つめながら、詩織は思う。
笑ってる場合じゃない。でも千里の前では笑っていたい。千里を不安にさせたくない。だからこの嘘だけは、どうか許してほしい。




