第11話「嘘のない笑顔が怖い」
朝霧睡という生き物は、たぶん、この世界のバグだ。転校初日の昼休みが終わる頃には、詩織はそう確信していた。
五時間目が始まるまでの十分間で、睡は男子バスケ部のエースに「今度一緒にやろうぜ」と肩を叩かれ、学級委員長の眼鏡女子に「わからないことがあったらいつでも聞いてね」と頬を染めて言われ、教室の隅でイヤホンを外さないことで有名な不登校気味の男子とすら、何かの漫画の話題で三十秒だけ笑い合っていた。
「すごいね、朝霧くん」
後ろの席の沙耶が、頬杖をつきながら感嘆の息を漏らす。
「ああいうのなんて言うんだっけ。コミュ力おばけ?」
「コミュ力の権化、かな」
美咲が訂正する。その二人の視線の先で、睡は窓際の席に腰を下ろし、誰かに話しかけられるたびに首を傾けて微笑んでいた。
銀色の髪が窓からの光を受けて淡く輝く。目を細めるタイミング、口角の上げ方、相手の言葉に対するうなずきの深さ。全てが完璧に調律されたピアノの和音のように、一つの狂いもない。
それが、詩織にはわかる。
自分が毎朝、洗面台の鏡の前で練習しているのと同じ筋肉の使い方だから。口角は上げすぎると嘘くさい。目は細めすぎると媚びになる。声のトーンは半音だけ上げるのがちょうどいい。そういう計算を、あの銀髪の転校生は詩織より遥かに精密にやっている。
ただし、一つだけ違う点があった。
詩織の嘘は六十点の出来だ。騙せる人と騙せない人がいる。千里の前では特に精度が落ちる。でも睡の嘘は百点だった。誰一人、気づいていない。教室中の全員が、あの穏やかな微笑みを「本物」だと信じ切っている。
「桐谷さんは? 朝霧くんのこと、どう思う?」
美咲に振られて、詩織は反射的に笑顔を作った。
「優しそうな人だなって」
嘘の味がしない。もう何百回と繰り返した種類の、舌が麻痺した嘘。
でも本当のことを言えるわけがない。あの人の笑顔、全部嘘だよ。わたしにはわかる。同業者だから。
そんなことを口にしたら、詩織のほうがおかしい人になる。
六時間目が終わった。
帰りのホームルームの後、クラスメイトたちが睡の周囲に集まるのを横目に、詩織は鞄を持って教室を出た。と、廊下で後ろから声をかけられた。
「桐谷さん」
振り返ると、睡が立っていた。教室から自然に抜け出してきたらしい。さっきまで五、六人に囲まれていたはずなのに、誰にも不自然に思われていない。すごい技術だ、と詩織は場違いな感心をした。
「ちょっと話せる? 屋上」
有無を言わさぬ穏やかさだった。嫌だと言えない種類の柔らかさではなく、断ってもいいけれど断る理由がない、という絶妙な温度。詩織は頷いた。
九月の屋上は、まだ夏の名残りを背中に貼りつけてくる。コンクリートの床が昼の熱を溜め込んでいて、スニーカーの底からじわりと温度が伝わった。フェンス越しに見える空は、透き通った水色と夕方の橙がちょうど混じり合う手前の、曖昧な色をしていた。
詩織は先週、この場所で声を出した。「誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな」。あの日から、全てが動き出した。
「ここ、好きなんだ?」
睡がフェンスに寄りかかりながら言った。
「……別に。たまたま」
「嘘だね」
あっさりと見抜かれた。詩織が目を瞠ると、睡は薄く笑った。
でも、その笑顔が教室で見せていたものと違う。
完璧な塗装が剥がれたように、その下から覗く素顔は穏やかだけれど疲れていた。目の奥にうっすらと影がある。唇の力が抜けている。作り物の微笑みではなく、ただそこにいる人間の顔。
「……嘘、やめたんだ」
詩織が呟くと、睡が少し驚いたように瞬きをした。
「やめた?」
「教室での顔。全部計算でしょう。口角の角度も、うなずくタイミングも」
言ってから、しまったと思った。こんなことを指摘するのは失礼だ。でも睡は怒らなかった。むしろ、感心したように詩織を見つめた。
「すごいね、君。初日でわかる人、初めてだ」
「同じことしてるから。わたしも。ただ、わたしのほうがずっと下手なだけ」
睡が一瞬、言葉を失った。
それから、ふっと息を吐くように笑った。教室での百点の嘘ではない。六十点くらいの不格好で、でも温かい笑い方。
「下手って自覚があるの、逆にすごいと思うけど」
「自覚はあっても、やめられないんだけどね」
二人の間を秋の風が通り抜けた。屋上のフェンスが微かに鳴る。
嘘つきと嘘つきが、嘘を脱いで向き合っている。奇妙な安心感があった。この人の前では嘘をつく必要がない。というよりつけない。同じ手口を知っている人間を騙すことはできないのだ。
睡の視線が詩織の右腕に移った。制服の長袖の下。消えない文字。
「招待状、ちゃんと届いてたね」
「……招待状って呼ぶんだ、これ」
「正式名称はもっと長いけど、招待状のほうがわかりやすいでしょ」
睡が軽い口調で言う。でも目は笑っていない。
「千里ちゃん──藤宮さんの症状、僕は知ってる。言いたいことと逆のことが口から出る。声を出すのが怖くなって、筆談に切り替えた。手が震えている。でも性格は変わらず明るくて、君の前では笑おうとしてる」
詩織の胸が冷たくなった。全部、そのとおりだった。
「なんで知ってるの」
「同じことが、あちこちで起きてるから」
睡がフェンスから背を離し、詩織に向き直った。教室で見せる穏やかな仮面はもうどこにもない。その代わりにあるのは、静かな覚悟のようなものだった。
「この世界の裏側に、もうひとつの世界がある。言葉がそのまま力を持つ世界。その世界の均衡が崩れて、こっち側にも影響が出てるんだ。藤宮さんの症状は、その影響の一つ」
荒唐無稽だった。漫画か、アニメか、深夜のオカルト番組みたいな話。
でも詩織の右腕には、こすっても消えない文字が刻まれている。千里の口からは、本人の意思とは逆の言葉が溢れ出ている。空の高いところで、世界の骨組みが軋む音がする。全部、現実だ。
「信じるとか信じないとか、そういう話じゃないんだよね」
詩織が言うと、睡がわずかに目を見開いた。
「……普通はもう少し驚くか、疑うかするんだけど」
「驚いてるよ。でも千里があんなふうになってるのに、『嘘でしょ』って言ってる余裕がない」
睡がしばらく黙って詩織を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「君の声が聞こえたんだ」
「え?」
「先週、ここで。『誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな』って。あの声が、僕を呼んだ」
詩織は息を呑んだ。あれはただの独り言だった。誰にも聞かれていないはずの、たった一度だけ本音を声にした瞬間。頭上で空が鳴った気がした。あの日と同じ、かすかな軋み。
右腕の文字が、心臓の鼓動に合わせて温かく明滅した。ポケットの中の翠のお守りも、同じリズムで脈打っている。




