第12話「コトノハという名の世界」
屋上の風が冷たくなっていた。九月も半ばを過ぎると夕暮れが早くなる。オレンジ色の光が校舎のフェンスに長い影を落として、詩織の足元まで届いている。隣に立つ朝霧睡の銀髪が、夕日に溶けて淡い金色に光っていた。
「裏側の世界ってどういう意味?」
さっき聞いた言葉を、もう一度口に出してみる。声にしたところで意味がわかるわけでもなかったけれど、黙っていると心臓のあたりがざわざわして落ち着かなかった。右腕の文字が、とくん、と脈打つ。お守りの温もりがブレザーのポケット越しに伝わってくる。
「そのままの意味だよ」
睡は屋上のフェンスに背中を預けて、穏やかに、でも、さっきまでの教室用の完璧な笑顔とはまるで違う、どこか疲れたような目で答えた。
「この世界と重なるようにして、もうひとつの世界がある。僕たちは『コトノハ』と呼んでいる」
「コトノハ」
「言の葉。言葉の世界だ」
オウム返しに繰り返す詩織に睡は小さくうなずいた。フェンスの向こうでは校庭の部活動がまだ続いていて、野球部のかけ声やブラスバンドの音がぼんやり聞こえる。日常の音だ。その日常のすぐ裏側に別の世界がある、と言われても、正直なところ頭がついていかない。
けれど右腕の文字は嘘ではなかった。千里の言葉が壊れたことも、空に走った亀裂も、夢や幻覚では片づけられなかった。
「コトノハは、言葉がそのまま目に見える世界なんだ」
睡がフェンスから背中を離し、詩織のほうに向き直る。
「嬉しい言葉は光って、悲しい言葉は雨みたいに降る。怒りの言葉は炎になるし、祈りの言葉は花になって咲く。人の心が、そのまま風景になる世界だと思ってくれればいい」
「……なにそれ。ファンタジーの設定みたい」
「だろうね」
睡が苦笑する。教室でクラスメイトに見せていたそつのない笑顔ではなく、ちょっとだけ困ったような年相応の笑い方だった。
「でも君は知ってるはずだ。この一週間で、看板の文字が歪んだのを何度も見ただろう?」
息が詰まった。誰にも言っていない。千里にも、お母さんにも。
「右腕の文字が、そのたびに熱くなったはずだ」
「……なんで知ってるの」
「同じものを見ているからだよ」
睡はブレザーの袖を少しだけ捲った。白い手首に、詩織のものとは違う銀色の細い文字列が、心臓の鼓動に合わせて明滅していた。
「僕もコトノハに繋がっている。もっと正確に言えば、コトノハから来た」
夕日が一段沈んで、屋上の影が濃くなる。睡の碧い目が、冗談を言う人間の目ではないことは、嘘を見抜くことだけが取り柄の詩織にはわかった。
「コトノハの均衡が崩れている」
睡の声が少し低くなった。教室で見せていた軽やかさがすっかり消えて、そこにいるのは詩織と同じ年頃の少年ではなく、何かの重さを背負った誰かだった。
「コトノハには七柱の神様がいる。言神──コトガミと呼ばれる存在で、それぞれが言葉の大切な要素を守っている。真実の神、約束の神、祈りの神、名前の神、物語の神、歌の神、そして沈黙の神」
七つの名前を指折り数えるように挙げながら、睡は最後のひとつだけ声を落とした。
「そのうち六柱が、眠りについてしまった」
「眠り?」
「言神が眠ると、その神が守っていた言葉の力が弱まる。約束の言葉が軽くなり、祈りが届かなくなり、名前が意味を失う。それが連鎖して起きているのが言語崩壊だ」
言語崩壊。その四文字が、千里の泣き顔と重なった。
言いたいことと反対の言葉が口から出る。「助けて」が「用はない」になり、「ごめんね」が「ざまあみろ」に変わる。千里はいま、自分の口にテープを貼るみたいにマスクで口元を覆って、メモ帳に言葉を書いて暮らしている。
「千里の症状も、それなの」
「うん。コトノハで起きている言語崩壊が、現実世界にも滲み出している。藤宮さんは、その影響を特に強く受けてしまったんだと思う」
睡の言い方には断定と推測のあいだくらいの温度があった。全部わかっているわけではないけれど、嘘は混じっていない。たぶん。
「治す方法はあるの?」
声が少し震えた。自分でも気づかないくらい小さな震えだったけれど、夕暮れの屋上は静かすぎて、そういうものまで全部聞こえてしまう。
「ある」
睡がはっきりとうなずいた。
「眠っている言神を覚醒させること。六柱の言神が目覚めれば、コトノハの均衡は戻る。言語崩壊も止まる。藤宮さんの言葉も元に戻る」
「それは睡くんたちがやるの?」
「僕たちだけじゃ足りない。コトノハには『守り手』と呼ばれる人間がいるけれど、数が減っている。だから新しい力が必要なんだ」
睡が詩織の右腕に視線を落とした。制服の袖に隠れたあの文字。《あなたの声が必要です。世界を救うために》。
「君の声紋が必要なんだ、桐谷さん」
「声紋?」
「声紋は人の心の奥にある、本当の声が形になった力のことだよ。コトノハでは、声紋を使って戦ったり、壊れた言葉を修復したりする」
「……わたしに、そんなものがあるの」
嘘のない声。自分の声にそんなものがあるとは、どうしても思えなかった。千里に「大丈夫だよ」と言いながら全然大丈夫じゃなくて、美咲と沙耶のあいだで誰の味方にもならない言葉ばかり選んで、お母さんに「楽しかったよ」と嘘をつく。そんな声に力があるなんて、冗談にしてもできが悪い。
「ある」
睡が断言した。教室で誰にでも向けていたあの微笑みの残滓はもうどこにもなくて、碧い目がまっすぐに詩織を見ていた。
「君の声が聞こえたから、僕はここに来たんだ」
先週の屋上。誰もいないと思って、初めて声に出した言葉。誰か、わたしの本当の声を聞いてくれないかな。あの情けない呟きを、この少年は聞いていた。
「……あれ、聞かれてたの。恥ずかしいんだけど」
「ごめん」
睡が小さく笑った。今度の笑顔には嘘がなかった。ほんの少しだけ申し訳なさそうで、ほんの少しだけ嬉しそうで、ほんの少しだけ寂しそうな笑顔だった。嘘つきのわたしが言うんだから間違いない。
「コトノハに来てほしい。言神を覚醒させる旅に、力を貸してほしい」
夕日が校舎の屋根の向こうに沈みかけている。空の高いところに、詩織にだけ見える細い亀裂が走っている。あの亀裂の向こう側に、コトノハがあるのだろうか。
右腕の文字がまた、とくん、と脈打った。お守りも同じリズムで温まる。心臓と、腕と、ポケットの中の三つが、同じ鼓動を刻んでいる。
「行ったら、千里は治るの」
「断言はできない。でも言語崩壊を止めなければ、藤宮さんの症状が自然に治ることはないと思う」
正直な答えだった。「絶対治る」と言ってくれたほうが楽なのに、睡はそう言わなかった。嘘をつかないでいてくれた。それが、不思議とありがたかった。
でも。
ぐ、と胸の奥に冷たいものが滲む。
「わたしなんかが行って、本当に意味があるの」
声紋とかいうものの正体もわからない。戦う力もない。あるのは、嘘をつく技術と、嫌われないための笑顔と、空っぽの中身だけ。
睡がしばらく黙った。風がフェンスを揺らして、金属のきしむ音が鳴った。
「意味があるかどうかは、行ってみなければわからない」
ずるい答えだな、と思った。でもそのずるさにも嘘がなかった。
「……考えさせて」
それだけ言うのが精一杯だった。即答できるほど強くないし、断れるほど千里のことを諦められない。どっちつかずの返事。いつものわたしだ。
睡はうなずいた。「もちろん。君が決めることだから」と言って、それ以上は何も言わなかった。
屋上を出るとき、睡のブレザーのポケットから何かの紙片がのぞいた。白ではない。黒い墨のような色の紙。睡はすぐにポケットに手を突っ込んで押し込んだけれど、詩織の目には映っていた。
聞けなかった。聞くべきだったのかもしれない。でも、踏み込む言葉を持っていなかった。いつも通り。気づいて、黙って、笑って。それがわたしの全部だ。
階段を降りながら、詩織は右腕の文字を左手でそっと触れた。《あなたの声が必要です》。嘘みたいに温かかった。温かいから余計に信じられなかった。




