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第13話「行ってみなきゃわからない」

 眠れない夜だった。布団の中で何度も寝返りを打ち、天井の染みを数え、枕を裏返して冷たい面に頬を押しつけて。それでも頭の中はぐるぐると同じ場所を回り続けていた。

 コトノハ。言葉が目に見える世界。眠りについた六柱の神様。声紋。言語崩壊。

 睡が語った言葉のひとつひとつが、暗闇の中で文字になって浮かんでくるような気がした。もちろん気のせいだ。ここは現実世界で、わたしの部屋で、言葉は目に見えたりしない。でも右腕の文字は確かにそこにあって、心臓と同じリズムで脈打っている。パジャマの袖をめくると、暗がりの中でも《あなたの声が必要です》の文字がほのかに光っていた。


「……嘘つき」


 小さく呟いた声は、九月の夜気に吸い込まれて消えた。わたしの声なんか必要としている人なんて、どこにもいない。千里だって、わたしの言葉じゃなくてわたしの体温を求めていたじゃないか。手を握ってほしかっただけだ。百個の慰めの言葉より、ただそばにいてくれる誰かを。

 枕元のスマホが光った。千里からのメッセージだ。


『明日、保健室にいるね。詩織が来てくれると嬉しいな』


 絵文字もスタンプもない、短い文字列。スマホの文字入力なら反転しないと、千里は学んだのだ。自分の口から出る言葉が信用できないから、指先で一文字ずつ、確かめるように打っているのだろう。

 わたしは返信を打とうとして、親指が止まった。『明日行くね』。そう打てばいい。簡単だ。いつものわたしなら、にっこりマークのスタンプをつけて三秒で送信できる。


 でも、その先は?

 明日も明後日も保健室に通って、千里の筆談に付き合って、「大丈夫だよ」と嘘をつき続けるのか。大丈夫じゃないのに。自然に治らないって、睡は言った。コトノハで言語崩壊を止めない限り、千里の言葉は壊れたまま。

 お守りをポケットから取り出した。布団の上に置くと、右腕の文字とお守りが呼応するように明滅する。とくん、とくん。二つの拍動が重なって、まるで心臓がもう一つ増えたみたいだった。


「わたしなんかが行って、意味あるの」


 声紋という力のことを聞いた。心の奥の本当の声が形になった力。でもわたしには本当の声なんてない。空っぽの風船に声紋なんか宿るわけがない。中身のない自動販売機のボタンを押したって、何も出てこないに決まっている。

 行きたくない。怖い。知らない世界で、知らない力を使えと言われて、できなかったらどうするの。


 でも。

 千里の震える手を思い出した。マスクの下で噛み締めた唇を。自分の口を叩いてまで言葉を止めようとした、あの痛々しい仕草を。

 スマホの画面がまだ光っている。千里のメッセージ。たった一行。わたしが来てくれると嬉しい、と。

 行かない理由を探すのは簡単だった。怖いから。力がないから。空っぽだから。どれも本当のことで、どれも正しい理由で、わたしはそういう「正しい言い訳」を作るのが得意だ。誰も傷つけないように、誰にも嫌われないように、やんわりと断る技術なら十七年間かけて磨いてきた。

 でも今、千里が苦しんでいる。

 千里の「おはよう」が「さようなら」に変わって、「ありがとう」が「邪魔です」に変わって、「詩織」と呼ぶ声だけがかろうじて反転しなかった。あの瞬間の千里の目をわたしは忘れられない。

 お守りを握りしめた。温かかった。誰かがそっと手を包んでくれているような温もり。

 返信を打った。


『明日行くね。千里に会いたい』


 嘘じゃなかった。


          *


 翌朝、九月十八日。木曜日の空はどこまでも高く、雲ひとつなかった。教室に向かう廊下を素通りして、わたしは保健室のドアをノックした。


「失礼しまーす」


 カーテンで仕切られたベッドの向こうから、千里が顔を出した。マスクをしている。それだけなら風邪の子とたいして変わらないのに、口の上に医療用テープが×印に貼ってあるのが見えて、わたしの胸がぎゅっと縮んだ。

 千里がノートを掲げた。


『詩織ー! おはよー!!!』


 感嘆符が三つ。筆圧が強くて紙が少し破れている。千里らしい、全力の挨拶だった。


「おはよう、千里」


 わたしは笑った。作り物じゃない笑顔が出たのは、たぶん千里の前だけだ。ベッドの脇のパイプ椅子に座ると、消毒液とリネンの匂いが鼻をくすぐった。保健室の白さが目に沁みる。


『昨日の夜ぜんぜん眠れなくて ネットで色々調べちゃった 同じ症状の人いないかなって』


 千里がノートにさらさらとペンを走らせる。文字は丸っこくて可愛い。声と違って、千里の書く文字は千里のままだった。


「見つかった?」


 千里は首を横に振った。そしてペンが止まり、少し迷ってから、ゆっくりと書いた。


『ごめんね』


 わたしは目を瞬いた。


「何が?」

『詩織に迷惑かけてる 美咲たちにもひどいこと言っちゃったし わたしのせいで詩織がフォローしなきゃいけなくなって』

「千里のせいじゃないでしょ。病気みたいなものなんだから」

『でも 詩織に「消えて」って言った 口が勝手に 本当は違うのに』


 ペンを握る千里の手が震えていた。小さな水滴がノートに落ちて、「違う」の文字が滲んだ。

 千里が口元のテープに手をやった。何か言おうとしてやめた。テープを貼り直す指先が、白くなるほど強く押さえつけている。自分の口を、信用できない自分の声を物理的に封じている。

 その姿を見た瞬間、わたしの中で何かが音を立てた。ぱきん、と。薄い氷が割れるような、小さくて確かな音。

 怖いとか、空っぽだとか、意味がないとか、全部どうでもよくなった。


「千里」


 わたしは千里の手を取った。テープを押さえていた手を、そっと引き剥がして、両手で包んだ。千里の指は冷たかった。九月なのに、氷みたいに。


「わたし、千里を治す方法を見つける。絶対に」


 根拠なんかなかった。声紋が使えるかもわからない。コトノハに行って何ができるかもわからない。でもその言葉は嘘じゃなかった。右腕の文字が、ほんの少しだけ温度を上げた気がした。

 千里が大きな目でわたしを見つめた。涙の膜が光を反射して、きらきらしている。ノートにペンを走らせた。


『詩織が言うなら 信じる』


 ああ、ずるいな。そういうこと言うから、わたしは逃げられなくなるんだ。

 でも、逃げたくないと思ったのも、本当だった。


          *


 放課後。西日が廊下をオレンジ色に染める頃、わたしは昇降口の前で睡を待っていた。靴箱に寄りかかって、鞄のストラップを指に巻きつけたりほどいたりする。緊張すると手持ち無沙汰になる癖は昔からだ。

 上履きの足音が近づいてきた。振り向くと、銀髪が西日を受けて淡く光っている。睡は制服のブレザーをきっちり着こなしていて、転校二日目にして既に校内の注目を集めている自覚はあるのかないのか、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。


「桐谷さん、待たせてごめん。先生に捕まってしまって」

「ううん、わたしも今来たところ」


 嘘だ。二十分前から立っている。でもこういう嘘はもう味もしない。


「あの、睡くん」

「うん?」


 わたしは息を吸った。制服のスカートをぎゅっと握った。お守りがポケットの中でとくんと脈打つ。


「わたし、行く」


 睡の瞳が微かに見開かれた。碧い目に、昇降口の夕陽が映り込んでいる。


「千里を元に戻す方法があるなら教えて。わたし、コトノハに行く」


 声は震えなかった。震えなかったことに自分で少し驚いた。睡が黙ってわたしを見ている。いつもの完璧な笑顔ではない素の表情。どこか探るような確かめるような目。


「……君から言ってくれると思っていた」


 睡の声は静かだった。


「でも、こんなに早いとは思わなかった。昨日、考えさせてと言っていたから」

「一晩考えた。たぶん、一晩じゃなくて五分で決まってたけど。残りの時間は怖がってただけ」


 正直に言った。嘘をつく気力が今はなかった。


「怖い?」

「怖い。すっごく怖い。声紋とか言われても全然ピンとこないし、知らない世界に行くとか正気じゃないと思う」


 睡が少し笑った。作り物じゃない方の笑い方。口角だけじゃなくて、目の端が細くなる。


「なのに、行くの?」

「千里が苦しんでるのに、何もしないでいる方がもっと怖い」


 わたしは鞄のストラップを指から解いた。自分の手を見た。何の力もない、普通の手。でもさっきこの手で千里の冷たい指を包んだとき、千里は少しだけ笑ってくれた。


「それに」


 言いかけてやめた。やめようとした。でも口が勝手に動いた。


「わたしの声が本当に必要だって言うなら確かめたい。行ってみなきゃわからないでしょ」


 睡が目を丸くした。ほんの一瞬だけ、本当に一瞬だけその顔から全部の仮面が外れた。驚きと、安堵と、それからわたしには読み取れない何か複雑なものが混ざった表情。

 そしてすぐにいつもの穏やかな顔に戻って、睡は頷いた。


「わかった。明日の放課後、屋上に来て。君が最初に声を出した場所でコトノハへの扉を開く」


 明日。急だ。でも、延ばしたら怖気づく自分を知っている。


「うん」


 わたしは頷いた。お守りがポケットの中で、とくん、と強く脈打った。


 帰り道、夕焼けの空を見上げた。高い場所に、わたしにだけ見える細い亀裂が走っている。世界の骨格に入ったひび割れ。空が壊れかけている。

 明日、わたしはあの向こう側に行く。

 鞄の肩紐を握り直して、わたしは歩き出した。足取りは重い。でも、止まらなかった。

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