第2話「いい人の仮面」
朝のホームルームが始まる三分前、桐谷詩織の机にはすでに三つの頼みごとが積まれていた。
英語の宿題を見せてほしいという付箋。体育祭実行委員の会議資料を印刷してほしいという走り書きのメモ。そして昨日の美術の課題で使った絵の具セットを返してほしいという伝言を、わざわざ隣の席の男子が口頭で伝えてきた。絵の具セットは確かに貸した覚えがある。英語の宿題は貸した覚えがない。会議資料に至っては、詩織は実行委員ですらない。
「桐谷さん、今日もよろしくね」
声の主は振り返るまでもなく、学級委員の高瀬だった。高瀬はいつも詩織に雑務を振るとき、まるでコンビニのレジに商品を置くみたいな気軽さで笑う。ありがとう、も、ごめんね、もない。ただ「よろしくね」だけがぽんと渡される。
「うん、わかった」
詩織は笑った。口の端を持ち上げて、目を少し細めて、声のトーンを半音上げる。この三つの動作を組み合わせると、だいたいの人間は「快く引き受けてくれた」と解釈する。便利な顔だと思う。自動販売機にお金を入れたらジュースが出てくるのと同じくらい、誰も疑問に思わない仕組み。
一時間目は古典。枕草子の「春はあけぼの」を教師が朗読している間、詩織は会議資料のデータを探してスマートフォンをこっそり操作していた。実行委員でもないのに資料の場所を知っているのは、去年も同じことを頼まれたからだ。去年は快く引き受けた。いや、違う。去年も今と同じ顔をして、同じ「うん、わかった」を返しただけだ。
二時間目の数学では、前の席の女子がシャーペンの芯を切らして振り返った。詩織は何も言われる前にケースを差し出した。相手が「ありがと!」と笑う。詩織も笑う。このやりとりに要した時間は四秒。四秒で好感度が一ポイント上がる。効率のいい投資だ、と思ってから、自分の思考回路の乾き具合にちょっとだけぞっとした。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、千里が教室のドアから顔を覗かせた。
「しーおーりー! 屋上行こ!」
テニス部の夏合宿で小麦色に焼けた腕を振って、千里はまるで迷子の犬を見つけた飼い主みたいな勢いで駆け寄ってくる。詩織は思わず本当に笑った。千里の前だと、口角を持ち上げる角度を計算しなくていい。ほんの少しだけ。
「千里、廊下走らないで。先生に怒られるよ」
「大丈夫大丈夫、松田先生は今日カレーの日だから職員室から出てこないもん」
根拠が薄すぎる。でもたぶん当たっている。千里の情報収集能力は、自分の興味のある分野においてのみ異常に高い。先生たちの昼食ローテーションと、テニスラケットの新作発売日と、詩織の機嫌が悪い日。この三つに関して千里は天才的な観察力を発揮する。
屋上に出ると、九月の風がまだ夏の残り香を含んでいた。コンクリートの地面はじんわりと熱を持っていて、制服のスカート越しに温度が伝わってくる。金網のフェンスの向こうに広がる住宅街は、午後の陽射しに白く霞んでいる。
二人は定位置に座った。給水塔の影になるベンチ。ここは午後になると日陰になるから、夏場でも過ごしやすい。詩織が母の作った弁当を開けると、卵焼きと鶏の照り焼きと、隅っこに几帳面に詰められたブロッコリー。千里はコンビニのおにぎり二つと紙パックのカフェオレ。
「ねえ聞いて、午前中にさ、佐藤くんが体育でこけてジャージ破ったの。お尻のとこ。もう教室中大爆笑で」
千里はおにぎりを頬張りながら、午前中に起きたことを時系列を無視して話す。詩織は相槌を打ちながら卵焼きを口に運ぶ。甘い。翠が少し砂糖を入れすぎたのかもしれない。最近、味付けが微妙にぶれることがある。疲れているのだろう。聞けないけれど。
「でね、それで体操服借りに行ったら、体操服もサイズ合わなくて」
「災難だね」
「災難っていうか、もはやコントだよ。あ、そうだ。詩織って誰にでも優しいよね」
唐突だった。千里の話題転換にはたまにこういう急カーブがある。
「え? 急にどうしたの」
「いや、さっき教室で見てたんだけど。高瀬さんにまた雑用頼まれてたでしょ。詩織、嫌な顔ひとつしないじゃん。すごいなって」
詩織は卵焼きを咀嚼した。飲み込むまでの数秒で、返事を組み立てる。
「別にすごくないよ。大したことじゃないし」
「大したことじゃないことを嫌がらずにやれるのがすごいんだって」
千里の目はまっすぐだった。曇りがなくて、裏がなくて、言葉の通りのことしか考えていない目。詩織はその視線を受け止めながら、唇の端を持ち上げた。いつもの笑顔。計算された角度の、完璧な「ありがとう」の表情。
優しいんじゃない。断る言葉を持ってないだけ。
喉の奥で言葉が引っかかって、飲み込んだ卵焼きと一緒に胃の底に落ちていった。
五時間目が終わり、掃除の時間が過ぎ、放課後の教室はまばらになっていた。詩織は高瀬に頼まれた会議資料を印刷し終えて、職員室前の棚に置いてから教室に戻ろうとした。
廊下の角を曲がったところで、声が聞こえた。
「美咲がさ、わたしの悪口言ってたの知ってるんだけど」
「はあ? 言ってないし。沙耶が先に」
二つの声が重なって、廊下の空気がぴりっと張り詰めている。教室の入り口の前で、二人の女子が向かい合っていた。美咲と沙耶。どちらもクラスの中心グループにいる子で、仲が良いときはべったりだけど、こじれると教室全体の空気を巻き込む厄介な関係だ。
二人の間に立っている数人のクラスメイトが、詩織に気づいた。
「あ、桐谷さん」
その視線が、まるでバトンを渡すみたいにこちらに向けられる。美咲が振り返った。
「詩織ちゃん、ちょっと聞いて。沙耶がね」
「違うし! 美咲が先に」
二人が同時に喋り始める。詩織は二人の表情を見た。美咲は怒りの下に不安がある。自分が間違っているかもしれないと思っている目。沙耶は怒りの下に悲しみがある。わかってもらえないことに傷ついている目。
詩織の頭の中で、自動的にプログラムが走り出す。美咲にはこの言葉、沙耶にはこの言葉。どちらも傷つけず、どちらにも「味方だ」と感じさせるフレーズ。何年もかけて磨き上げた、詩織だけの技術。
「美咲ちゃんの気持ちもわかるよ。急にそんなこと言われたら、びっくりするよね」
美咲の肩から力が少し抜ける。
「沙耶ちゃんも悪気があったわけじゃないよね。本当は仲良くしたいからこそ、気になっちゃうんだよね」
沙耶が唇を噛んで、でも小さく頷く。
二人の間にあった棘が、ほんの少しだけ丸くなる。周囲のクラスメイトが安堵の息を吐く。美咲が「……詩織ちゃんにそう言ってもらえると、なんか落ち着く」と呟いた。沙耶も「うん……ごめん、わたしも言い過ぎた」と小さく言う。
クラスメイトの一人が「さすが桐谷さん」と囁くのが聞こえた。詩織は笑った。いつもの笑顔。完璧な角度の。
わたしはどちらの味方でもない。ただ、嫌われたくないだけ。
帰り道、イヤホンをつけずに歩いた。商店街のアーケードを抜けると、夕方の風が肌の汗を冷やしていく。八百屋のおじさんが「お帰り、詩織ちゃん」と声をかけてくる。「お帰りなさい」と返す。パン屋の前を通ると焼きたての小麦の匂いがして、隣の金物屋からは油と金属の冷たい匂いがする。いつもの道。いつもの匂い。いつもの笑顔。
信号待ちの間に、ふと思った。今日わたしは何回笑っただろう。そのうち本当に笑ったのは何回だろう。千里と屋上にいたとき。あの一回だけだと、答えはすぐに出た。
家に着くと、翠がキッチンに立っていた。味噌汁の湯気が天井に向かって立ち昇っている。
「おかえり。今日はどうだった?」
「うん、楽しかったよ」
自分の口から出た言葉が、空気の中に溶けていく。嘘が自然すぎて、もう嘘の味さえしない。翠は「そう、よかった」と微笑んで、味噌汁をよそい始めた。
夕食を終えて食器を片付けて、詩織は自室に入った。ドアを閉めた瞬間、顔から笑顔がぺりっと剥がれた——そんな感覚があった。ベッドに倒れ込む。仰向けになって天井を見つめる。白い天井。蛍光灯のカバーに小さな虫の影が透けている。
ポケットからスマートフォンを取り出して、千里からのメッセージを確認する。「今日もありがと! 明日も屋上ね!」。ウサギのスタンプが三つ並んでいる。詩織は「うん、また明日ね」と返して、画面を伏せた。
目を閉じると、今日一日で使った全部の「笑顔」が瞼の裏でぐるぐる回った。高瀬に向けた笑顔。シャーペンの芯を渡したときの笑顔。美咲に向けた共感の表情。沙耶に向けた理解の表情。翠に向けた「楽しかった」の嘘。
どれが本当のわたしの顔なのか、もうよくわからない。
明日も、同じ顔で笑うんだろう。
声にならない息を吐いた。天井の蛍光灯を消すと、部屋は暗くなった。カーテンの隙間から街灯のオレンジ色の光が細く差し込んでいて、その光の筋の中を、小さな埃が音もなく漂っていた。




