第3話「嘘つきのわたし」
朝のホームルームが始まる前から、詩織の胃はきりきりと痛んでいた。
原因はわかっている。教室のドアをくぐった瞬間、美咲が手を振って駆け寄ってきたのだ。桜色のリップグロスを塗った唇が、耳元でそっと囁く。
「詩織ちゃん、昨日はありがとね。やっぱり詩織ちゃんはわたしの味方だよね」
味方。その単語が鳩尾のあたりにすとんと落ちて、重い。詩織は口角を三ミリほど持ち上げて──これは「困ったときの微笑み」のプリセット、もう何百回と使い古したやつだ──小さくうなずいた。
「うん、美咲ちゃんの気持ちわかるよ」
美咲は満足そうに自分の席へ戻っていく。ポニーテールが揺れるたびにシャンプーの甘い匂いがふわりと残った。
ほっとする暇もなく、今度は反対側の廊下から沙耶がやってくる。ショートカットに大きなイヤリング。美咲とは何もかも正反対の彼女が、詩織の机に手をついて身を乗り出す。
「桐谷さん、昨日のことなんだけど。わたしが悪いわけじゃないって、わかってくれたんだよね?」
詩織の胃がもう一回きゅっと縮む。
「うん、沙耶ちゃんも悪気があったわけじゃないし」
沙耶はにっこり笑って去っていった。
二人の背中を交互に見送りながら、詩織は机の下で自分の手を握った。指先が冷たい。九月だというのに、まるで真冬の水に触れたみたいだった。
わたし、今どっちにも「あなたが正しい」って言ったことになってる。
どっちの味方でもない。ただ嫌われたくなかっただけ。いつものことだ。いつもの、詩織のやり方。上手にやれたはずなのに、胃の底にじわじわと広がっていくこの気持ち悪さは何だろう。
「詩織ーっ!」
千里が教室に飛び込んできた。文字通り「飛び込んで」きた。ローファーのかかとが床を滑り、あやうく前の席の椅子に激突しかけて、隣の男子が慌てて鞄を避ける。
「千里、走らないの」
「走ってない! 高速で歩いただけ!」
千里は詩織の前の席に鞄を放り投げて、くるりと振り返った。頬が紅潮して、前髪がぺたりと額に張りついている。
「ねえねえ聞いて、今朝コンビニでね、新しいプリンが出てたの。『とろけすぎて形を保てませんでした』っていうキャッチコピーのやつ。名前が『降参プリン』。買った?」
「買ってない」
「えーっ、なんで!」
千里の声は教室中に響く。この子には音量調節という概念がない。でも不思議と誰も嫌な顔をしない。千里の声にはそういう力がある。聞いている人の口角をほんの少しだけ持ち上げてしまう、不思議な明るさ。
「昼休み、屋上で一緒に食べよ。わたしの分けてあげるから」
「うん、ありがと」
この「ありがと」だけは嘘じゃない。詩織は自分の唇が勝手にほころぶのを感じた。
一時間目の英語。二時間目の数学。三時間目の世界史。授業は淡々と過ぎていく。その間にも、詩織の視界の端では美咲と沙耶が交互にちらちらとこちらを見ていた。二人の視線が火花のようにぶつかるたびに、教室の温度が零コンマ一度ずつ下がっていく。ような気がする。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、詩織は弁当箱をひっつかんで立ち上がった。
「詩織、早い早い!」
千里が笑いながら追いかけてくる。階段を二段飛ばしで駆け上がって、屋上への重い鉄扉を押し開けると、九月の風がふわりと髪を撫でた。まだ夏の名残りを含んだ風。校庭の土の匂いと、遠くのファストフード店から漂ってくるポテトの油の匂いが混じっている。
給水塔の影にあるベンチ。ここが詩織と千里の定位置だ。コンクリートの壁に背中を預けると、日陰のひんやりした感触が制服越しに伝わってくる。
「はいこれ、降参プリン」
千里が得意げにコンビニの袋からプリンを取り出す。容器の蓋には白旗を掲げたプリンのキャラクターが描かれていて、ちょっとかわいい。
「千里が食べなよ、自分で買ったんだし」
「いいのいいの、半分こ!」
千里はプリンのスプーンを二本取り出した。こういうとき、千里はいつも二本買っている。最初から詩織の分も計算に入っている。その何気ない優しさが、ときどき胸に刺さる。
とろけすぎて形を保てなかったプリンは、確かにほとんど液体だった。カラメルの苦味と卵の甘さが口の中でとろりと溶ける。
「おいしい」
「でしょー!」
千里がにこにこしながら自分もすくって食べる。しばらく二人で黙ってプリンを食べていると、千里がふいに言った。
「ねえ、昨日の美咲と沙耶のことなんだけど」
詩織のスプーンが止まる。
「二人とも『詩織ちゃんがわたしの味方してくれた』って言ってたよ。今朝、別々に聞いた」
千里の声にはいつもの弾むような調子がなかった。横目で詩織の顔を覗き込むように見ている。
「詩織って、本当にすごいよね。みんなの気持ちわかるんだもん」
すごい。その言葉が、褒め言葉のはずなのに、頬を叩かれたみたいにひりひりする。
「そんなことないよ」
笑う。いつもの笑い方。口角を上げて、目を細めて、声のトーンを半音だけ上げる。自動販売機のボタンを押すように、正確に。
「千里の方がすごいよ。誰とでもすぐ仲良くなれるし」
「えー、わたしはただうるさいだけだよ」
千里が照れたように頭をかく。話題が逸れた。うまくかわせた。
うまくかわせた、なんて思ってる自分が、一番気持ち悪い。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。五時間目の古典の時間、美咲がこちらを向いてにこりと笑った。六時間目の化学の時間、沙耶が「桐谷さん、放課後ちょっといい?」と小さなメモを回してきた。
詩織は二つの笑顔と一枚のメモの間で、息が詰まりそうになった。
放課後。沙耶に呼ばれて廊下の隅で話を聞く。沙耶は腕を組んで、少し怒ったような顔で言った。
「美咲がさ、『桐谷さんがわたしの味方だって言ってくれた』って周りに言いふらしてるんだけど。桐谷さん、そんなこと言ったの?」
心臓が跳ねる。
「えっと──わたしは、美咲ちゃんの気持ちもわかるよって言っただけで」
「じゃあ、わたしの味方ってわけじゃないの?」
沙耶の目がまっすぐにこちらを射る。
詩織の頭の中で、選択肢がぐるぐると回る。沙耶に合わせれば美咲を裏切ることになる。美咲をかばえば沙耶を敵に回す。どちらにも寄らなければ、両方から嫌われる。
嫌われる。
その言葉が、喉の奥で石みたいに詰まった。
「わたしは、どっちの味方とかじゃなくて、二人ともわたしの大切な友達だから」
うまい。自分でもうんざりするほどうまい答え方だ。誰も傷つけない。誰の味方にもならない。誰にも嫌われない。完璧な空っぽ。
沙耶は少し考えてから「まあ、桐谷さんらしいね」と苦笑して去っていった。
その「らしい」が何を意味するのか、詩織には痛いほどわかった。
帰り道、千里とは別の方向だったので一人で歩いた。イヤホンは入れない。今日は自分の足音だけを聞いていたかった。ローファーがアスファルトを叩く、こつ、こつ、という乾いた音。
自宅のドアを開けると、味噌汁の湯気の匂いがした。翠がキッチンに立っている。
「おかえり。今日はどうだった?」
翠が振り返る。エプロンの裾で手を拭きながら、娘の顔を見る。少しだけ、ほんの少しだけ目の下にくまがある。最近、翠はよく眠れていないのかもしれない。聞きたい。でも聞けない。聞いたら翠が心配するから。心配させたら、翠がもっと眠れなくなるから。
「うん、楽しかったよ」
嘘だった。今日は楽しくなかった。でもこの嘘には味がない。毎日繰り返しすぎて、舌が麻痺してしまったのかもしれない。
翠は「そう、よかった」と微笑んで、味噌汁をよそい始めた。
夕食の後、自室に戻る。ベッドに制服のまま倒れ込んだ。天井の蛍光灯が白い光を落としていて、その光がやけに眩しい。目を閉じる。
今日使った「笑顔」を数える。朝、美咲に向けたもの。沙耶に向けたもの。千里に──千里に向けたものだけは数えなくていい。あれは本物だから。
それ以外、全部嘘。
体を起こして、洗面台の鏡の前に立つ。蛇口をひねると水が跳ねて、鏡に細かい飛沫がついた。その水滴の向こうで、自分の顔が歪んで見える。
笑ってみる。
口角を上げる。目を細める。頬の筋肉がいつもの位置に収まる。
うまい。本当にうまい。誰が見ても「優しい子の笑顔」だ。
だけどその笑顔を浮かべた顔が、他人の顔みたいに見えた。鏡の中の自分と目が合って、ぞっとした。この子は誰だろう。この子の中に、本当の顔はあるんだろうか。
蛇口の水を止める。水滴がぽたりと落ちる音が、しんとした洗面所に響いた。
ベッドに戻って、布団に顔を埋める。泣きたいわけじゃない。泣くほどの感情があるなら、まだましだ。ただ、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いているような感覚がある。寒くはない。痛くもない。ただ、空っぽだ。
スマホが震える。千里からのメッセージ。
『明日も屋上ね! 今度はシュークリーム持ってく!!!』
ウサギのスタンプが三つ並んでいる。
詩織は画面を見つめて、ゆっくりと息を吐いた。返事を打つ。
『ありがとう、楽しみにしてるね』
送信ボタンを押してから、天井を見上げる。蛍光灯の光が滲んでいた。
明日も笑おう。美咲にも、沙耶にも、先生にも、クラスメイトにも。みんなが求める「桐谷詩織」を、ちゃんと演じよう。
だって、それ以外のわたしを、わたしは知らないから。




