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第1話「世界が静かになる日」

 世界が静かになる日を、わたしはずっと待っていた。

 誰の声だろう。夢の底から響いてくるその言葉は、酷く優しくて、酷く冷たい。答えようとして口を開くのに、喉の奥がからっぽで、何も出てこない。いつもそうだ。大事なことほど、わたしの口は動いてくれない。


 ぴぴぴぴ。

 目覚まし時計が夢を断ち切った。九月一日、月曜日。夏休みが終わってしまった事実を、六時三十分の液晶表示が無慈悲に告げている。

 桐谷詩織は布団の中で三秒だけ目を閉じ、諦めて起き上がった。三秒。それがわたしに許された最大限の抵抗だ。

 カーテンを引くと、九月の朝日がためらいもなく部屋に入ってくる。白いレースのカーテン越しでも容赦なく眩しい。窓際の勉強机には夏休みの課題が几帳面に積まれていて、その横に置かれたガラスのペン立てが朝日を受けてきらきら光っていた。平和だ。いつも通りの、桐谷家の朝。


 階段を下りると、リビングからバターの焼ける匂いがした。

 母の翠がキッチンに立っている。四十二歳、仕事と家事をひとりで回す人。今朝はトーストとスクランブルエッグらしい。フライパンを揺する手つきが、いつもよりほんの少しだけ硬い気がした。


「おはよう、詩織。今日から二学期ね」


 翠が振り向いた。笑っている。でもその目の下に、コンシーラーでは隠しきれない薄い影がある。

 お母さんの声、最近少し疲れてる。

 聞きたい。大丈夫? と聞きたい。でも聞けない。聞いてしまったら、お母さんは「大丈夫よ」と笑うだろう。そしてわたしは、その嘘を嘘だと知りながら「そっか」と笑い返すだろう。意味のないやりとり。お互いの嘘を交換するだけの、空っぽな儀式。


「おはよう、お母さん。いい匂い」


 だからわたしは、いつも通り笑った。お母さんが安心する笑顔。柔らかくて、何も求めない、当たり障りのない笑顔。鏡の前で練習したわけじゃない。十七年も生きていれば、顔の筋肉が勝手に覚えてしまうのだ。

 トーストを齧る。バターの塩気が舌に広がって、それだけは嘘じゃなかった。テレビでは天気予報が流れている。「九月に入りましたが、残暑が続きます。日中の最高気温は三十二度」。キャスターの声が蝉の声と混ざって、夏の終わりの空気をリビングに運んでくる。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。水筒持った?」

「持った」


 玄関のドアを閉める。翠の「気をつけてね」が背中に当たって、すぐに九月の湿った空気に溶けた。

 外に出ると、アスファルトが朝日を照り返してぼんやり揺れている。住宅街の路地には萩の花が塀からはみ出して咲いていて、その紫がかった赤色がやけに鮮やかだった。ぺたぺたとサンダルの音がして振り向くと、近所のおばあちゃんが新聞を取りに出てきたところだった。


「あら、詩織ちゃん。二学期? えらいわねえ」

「おはようございます。はい、今日からです」


 にっこり。おばあちゃんが嬉しそうに頷く。わたしの笑顔はちゃんと機能している。今日も世界は平和だ。

 嘘つき。

 頭の隅で、誰かがそう呟いた。わたし自身の声で。


 最寄り駅までの道を歩きながら、制服のリボンを直す。紺色のブレザーに赤いリボン。スカートは膝丈。校則通り。髪は黒のミディアム、耳の下あたりで毛先が軽くはねる。これといって特徴のない、どこにでもいる女子高生。そう見えるように、わたしは自分を設計している。

 目立たない。嫌われない。誰の邪魔にもならない。それがわたしの処世術であり、生存戦略であり、たぶん呪いだ。

 いつからこうなったんだろう、と考える。思い出せない。ただ、ずっと昔、お母さんに言われた言葉だけが胸の底に沈んでいる。


 あなたの言葉はいつも人を傷つける。

 何歳の時だったか。何を言ったのかも覚えていない。ただあの一言がわたしの喉に見えない蓋をした。以来、わたしは自分の本音を口にしたことがない。本音を言えば人を傷つける。だから黙る。黙って、笑って、相手が望む言葉を差し出す。自動販売機みたいに。ボタンを押せば、期待通りの飲み物が出てくる。便利で、安全で、誰も傷つかない。


 駅前のロータリーに着くと、見慣れた姿が改札の前で手を振っていた。


「詩織ーっ! おはよー!」


 藤宮千里。十六歳。わたしの、たぶん唯一の親友。ショートカットの髪を耳の後ろに引っかけて、日焼けした顔でにかっと笑っている。制服のリボンが曲がっているのはいつものことだ。

 千里は夏休み中ずっとテニス部の合宿だったらしく、腕が一段と黒くなっていた。白い歯がよけいに目立つ。太陽を丸飲みしたような子だと、いつも思う。


「おはよう、千里。焼けたね」

「ねー? もうね、日焼け止め塗っても意味ないの。コーチがさ『紫外線は根性で弾け』とか言うんだよ。令和だよ? ねえ令和だよね?」


 千里がぶんぶん腕を振りながら喋る。言葉に句読点がない。いつも全力疾走の子だ。わたしは笑う。千里の隣にいると、笑うのが少しだけ楽になる。少しだけ。


「あ、でも合宿中にね、流れ星見たの! すっごくきれいでさ、詩織にも見せたかったなー」

「いいなあ。わたし夏休み何もしてないよ」

「え、うそ。何もって何も?」

「何もは何もだよ。課題やって、本読んで、寝て」

「詩織らしい……」


 千里が呆れたように、でも楽しそうに笑う。改札を通って、ホームに並ぶ。電車を待つ間も千里は喋り続けている。合宿での失敗談、先輩の恋バナ、コンビニの新作アイスの話。わたしはうんうんと頷きながら、時々「えー、すごい」とか「それ面白い」とか相槌を打つ。

 千里の話を聞いている時間が好きだ。自分が喋らなくていいから。千里の言葉は陽射しみたいに明るくて、一緒にいるだけでわたしまで明るい人間みたいな気分になれる。


 でも。

 電車に乗り込んで、窓ガラスに映る自分の顔を見る。千里の言葉に合わせて笑っている、わたしの顔。うん、よくできている。自然だ。違和感がない。目尻が下がって、口角が上がって、頬がふっくらして。完璧な「嬉しそうな顔」。

 でもそれはわたしの顔なんだろうか。

 ガラスの向こうのわたしは、光の加減で少し透けて見えた。夏の終わりの白い空と重なって、輪郭がぼやけている。透明人間みたい、と思った。中身がないから、背景が透ける。


「詩織? 聞いてる?」

「あ、ごめん。聞いてる聞いてる」

「もう、ぼーっとしすぎ。二学期初日からそれじゃ先が思いやられるよー」


 千里がわたしの肩をぽんと叩く。その手のひらが温かくて、一瞬だけ、わたしの輪郭がはっきりしたような気がした。


 学校に着いた。校門をくぐると、久しぶりに会うクラスメイトたちの声が重なり合って、九月の空気を賑やかに染めている。日焼けした顔、伸びた髪、新しい靴。みんなそれぞれの夏を過ごして、少しだけ変わって帰ってきた。

 わたしだけが変わっていない。夏休み前と同じ顔、同じ声、同じ笑顔。何も変わらない桐谷詩織。


「あ、桐谷さーん! おはよー!」

「桐谷ー、夏休みの英語のプリントってどこまでだっけ?」

「詩織ちゃん、おかえりー!」


 教室に入った瞬間、四方から声がかかる。わたしは全部に答える。おはよう。うん、五ページまでだよ。ただいま。にこにこ笑って、誰にでも同じトーンで。コンビニの自動ドアみたいに。来る人を拒まず、去る人を追わず。


「詩織って人気者だよねー」


 隣で千里が感心したように言う。違うよ、と心の中で否定する。人気者じゃない。便利なだけ。困った時に声をかければ断らない、都合のいい人間。それを「優しい」と呼んでくれるのは千里くらいだ。

 席について、鞄から教科書を出す。窓際の席。三列目。外からは運動部の掛け声が聞こえて、黒板の上の時計は八時二十五分を指している。二学期が始まる。また同じ毎日が始まる。

 笑って、頷いて、本音を飲み込んで。

 わたしの日常は、今日もちゃんと静かだ。


 ねえ、世界が静かになる日を、あなたも待っている?

 頭の中で、朝の夢の声がかすかに残響した。教室の喧騒に紛れて、すぐに消えた。わたしはシャープペンシルを手に取り、ノートを開く。真っ白なページ。何も書かれていない。何を書けばいいのかもわからない。

 チャイムが鳴った。二学期最初のチャイムが、わたしの「いつも通り」の幕を上げる。さあ、今日も上手に笑おう。だって、それしかできないのだから。

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