人の音を聴くのが好きなんだな
本番の朝。
楠木七菜、鏡を見る。
制服、髪。
いつも通り。
違うところ。
手。
指揮棒を持っている。
「……」
鏡の前で構える。
びしっ。
振る。
どやっ。
もう一回。振る。
母。
後ろを通る。
通り過ぎて、戻る。
「なにやってるの」
「指揮棒」
「それはわかる」
少し、間。
「なんで?」
「今日、指揮するから」
「ホルンは?」
「吹かない」
「歌は?」
「歌わない」
「じゃあ指揮するの?」
「そう言ってるじゃん」
母。
少し考える。
「できるの?」
「ちょっとね」
びしっ。
構える。
「できるようになった」
「……そう」
「それだけ?」
「他になにかあるの?」
「いや、ないけど」
母、笑う。
「頑張って」
「うん」
玄関、靴、履く。
「七菜」
「なに?」
「楽しんでおいで」
楠木七菜、笑って。
「うん、いってきます」
家を出る。
楠木七菜。
春生まれ。
名前、両親が相談して付けた。
春の七草と、菜の花から付けたらしい。
小学生の頃。
なななと呼ばれていたこともある。
定着はしなかった。
ただ。
楠木七菜。
春の七草。
全部は覚えていない。
会場。
青葉野地域文化交流会。
大きくはない。
小さくもない。
地元のホール。
客席、数百。
出演。
地元の合唱団。
市民バンド。
青葉野高校吹奏楽部、吹奏楽演奏。
など。
控室。
楠木七菜、楽譜をチェック。
立花奈緒、隣。
「緊張してる?」
「めっちゃしてる」
「へえ」
「なに」
「普通に見える」
これは心外。
「私をなんだと思ってるの」
立花奈緒。苦笑。
「いや。最近、わからなくなってきた」
「どういうことなの」
立花奈緒、笑う。
「でも」
「なに?」
「最初よりは、かなり見られるようになった」
「指揮?」
「そう」
楠木七菜、少しうれしい。
口元、緩みそう。
「そっか」
「まだ佐々木先生とは全然違うけど」
当然。
「それはわかってる」
「入りもたまにわかりにくい気がする」
「わかってるってば」
「左手がときどき迷子になってる」
「奈緒」
「うん?」
「いまそれ言う?」
「いまだから、かな?」
「なんで」
「七菜、本番中に気づいたら焦りそうだから」
「……」
左手、見る。
立花奈緒、笑う。
「でも」
楠木七菜、視線を上げる。
「大丈夫な気がしてきた」
「そっか」
「うん。頑張ろう」
「そうだね」
楽譜を閉じる。
「じゃあ」
立ち上がる。
「やる」
ロビー。
作詞家。新田先生。
歩く。
パンフレットを見る。
青葉野高校吹奏楽部。
楠木七菜さん。
ホルン。
全国大会出場。
なるほど。
歌があれだけ。
吹奏楽でどんな演奏をするのか。
楽しみ。
客席に座る。
おや。
「榊原さん」
近くに榊原美冬がいる。
「ああ。こんにちは」
挨拶。
「榊原さんは今日は演奏しないの?」
「ええ、歌の練習がしたかったので」
「なるほど」
「小早川さんと楠木さんは出るの?」
「ええ、二人とも出ます」
「へえ」
新田先生が笑う。
「僕、君たちの演奏は初めて聴くから楽しみだな」
「演奏?」
「うん」
「なるほど。確かに演奏、楽しみですね」
とだけ、榊原美冬が答える。
新田先生の隣に。
壮年の男性が座る。
先生の知り合い。
「こんにちは、新田先生もいらしてたんですね」
「やあ。青葉野高校吹奏楽部の演奏が一番の目当てでね」
「そうなんですか」
新田先生、少し笑って。
「何人か、知ってる子がいるんだ」
「へえ」
「ホルン」
「上手いんですか?」
少し、考えて。
「ホルンは知らない」
「何ですかそれ」
「歌が上手い」
「吹奏楽部なんですよね?」
「そうなんだよ」
少し、遠い目。
でも今日は。
吹奏楽。
楠木七菜が普段どんな演奏をするのか。
興味ある。
榊原美冬。
パンフレットに目を落として。
ちょっと震えてる。
司会。
「続きまして」
青葉野高校吹奏楽部。
吹奏楽演奏。
拍手。
部員が舞台に入り、着席。
新田先生、見る。
ホルン。
探す。
「あれ?」
いない。
もう一度。
見る。
やっぱりいない。
「どうしました?」
「いや、知ってる子が……」
体調でも崩したのかな?
ちょっと心配。
そのとき。
袖から。
一人、出る。
「…………」
楠木七菜。
前を向いて。
歩く。
指揮台に、上がる。
「え?」
「彼女が、知ってる子です?」
新田先生。
「うん」
「ホルンじゃなかったんですか」
「ホルンだよ」
「でも、指揮台にいますけど」
新田先生。
少し、黙る。
考える。
まあ、この子たちに関しては。
考えるだけ。
無駄かもしれない。
「まあ、聴いてみよう」
楠木七菜。
観客席。
見る。
とても人、多い。
みんなの中の一人として。
演奏するより。
緊張する。
振り返る。
みんな、いる。
立花奈緒、小早川千紘。
同級生たち、先輩たち。
立花奈緒と目が合う。
少し頷く。
楠木七菜、息を吸う。
指揮棒を上げる。
始まる。
新田先生、見る。
最初。
少し硬い。力んでいる。
高校生。
普通の高校生。
まだ、慣れていない。
でもしっかり伝わる指示を出してる。
楠木七菜、聴く。
練習通り。
木管、金管。
低音。
練習通りの音は出てる。
聴く。
少し、違う。
会場。
練習場所と違う。
広さ、響き、跳ね返り。
いつもより。
残る。
楠木七菜、聴く。
次。
ホルン。
少し強い。
左手で抑える動作。
ホルンが変わる。
楠木七菜、聴く。
木管が前に出る。
これでいい。
新田先生。
少し眉が上がる。
いま、変えた。
曲が進む。
練習とは違う。
少し走ってる気がする。
楠木七菜、気づく。
指揮棒を振って。
ちょっとテンポを戻す。
立花奈緒を見る。
目が合う。
指揮棒の動きに合わせる。
走っていた低音が戻る。
全体も戻る。
榊原美冬が見ている。
クラリネットを吹いている親友と。
指揮棒を振っている後輩。
ほんの少し。
笑う。
新田先生。
腕。
いつのまにか組んでる。
身を乗り出すように、前のめり。
聴く。
指揮。
上手い。
いや。
上手くはない。
高校生。
でも。
この子。
楠木七菜、ずっと。
聴いている。
いま。
なにが鳴っているのか。
どう聴こえるのか。
探して。
見つけて。
動かしてる。
「ああ」
知り合い。
「なに?」
新田先生、舞台を見る。
楠木七菜が一生懸命指揮棒を振っている。
「彼女は」
少し考えて。
以前から。
歌を何度か聴いた。
思った。
才能がある。
練習もしてる。
どちらもある。
でも。
今日、別のものが見えた気がした。
「人の音を聴くのが」
背もたれに背を付ける。
「好きなんだな」
曲、最後。
全員が楠木七菜を見る。
息を合わせる。
振る、止める。
音、終わる。
残響。
楠木七菜、待つ。
佐々木先生が言っていた。
音が消えるまで。
終わりではない。
待つ。
消える。
下ろす。
静寂は一瞬。
拍手。
大きい。
楠木七菜、息を吐く。
振り返って、礼。
袖から戻る。
気持ち、早歩き。
壁、背中。
「疲れた」
立花奈緒も戻ってくる。
「お疲れ様」
「本当に疲れた」
「二回も言った!」
「だって疲れたんだもん」
立花奈緒が笑う。
「良かったよ」
「ほんと?」
「うん」
小早川千紘も来る。
「途中ちょっと変えた?」
「わかりました?」
「うん」
「ホール、思ったより響いたから」
楠木七菜、少し考える。
「練習と同じだと、なんか違った」
佐々木先生。
「よく聴けていましたね」
「先生」
佐々木先生の笑顔。
「最初の練習を考えれば」
間。
「驚きましたよ」
「……」
うれしい。
かなり、うれしい。
口元を引き締める。
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「中盤。テンポを戻すことに意識が向き過ぎました」
「あ」
低音が、走ったとき。
「そのとき、木管への指示が少し曖昧になっていました」
「……はい」
厳しい。
「それから、最後の三十七小節目」
「あそこも?」
「ええ」
楠木七菜、楽譜を出す。
「どこですか?」
立花奈緒、楠木七菜を見ている。
終わった。
いま、本番終わった。
なのに、もう、次。
小早川千紘と顔を見合わせる。
これには二人も苦笑い。
ロビー。
楠木七菜、歩く。
「楠木さん」
声。
振り返る。
「あ、新田先生」
先生が手を上げる。
「お疲れ様」
「来てたんですね」
「うん」
頷いて。
「びっくりしたよ」
「指揮してたから?」
「うん」
少し、間。
「ホルンだと思ってたから」
「普段はホルンです」
「知ってる」
「今日は指揮です」
「見たから知ってる」
二人、笑う。
「指揮は」
楠木七菜、ちょっと身構える。
「まだまだだね」
「はい」
即答に口角が上がる。
「でも」
楠木七菜を見る。
「ちゃんと音楽を聴いてた」
楠木七菜が止まる。
「途中、会場の響きに合わせて変えたんじゃないかな」
「わかりました?」
「そりゃわかるよ」
昭和から。
音楽で。
飯食ってる。
「よく聴いてた」
「ありがとうございます」
新田先生。
少し考える。
「楠木さん」
「はい」
「指揮者になるつもりは?」
「え?」
考える。
「今のところ」
新田先生。
目を細める。
来た。
この、答え。
「ないです」
「そう」
「はい」
「じゃあ」
「なんであんなに練習したの?」
前にも聞いたことがある。
この質問。
歌手になるつもりない。
じゃあ、なんで。
そんなに練習してるの。
楠木七菜は。
少し考えて。
「だって」
指揮棒を見る。
「やるなら」
顔を上げる。
「上手くやりたいじゃないですか」
「……」
「あと」
確かめるように、頷いて。
「やってみたら、結構面白かったです」
新田先生が満足げに。
笑う。
「そっか」
「はい」
「またやる?」
「機会があったら」
と、答えてから。
「でも、次はホルン吹きたいです」
新田先生、声出して笑う。
「そうか」
「はい」
少し離れたところ。
榊原美冬が待っている。
「美冬先輩!」
楠木七菜が駆け寄っていく。
榊原美冬が。
楠木七菜に、何かを言う。
楠木七菜が笑う。
その姿を。
新田先生が見ている。
知り合いが後ろからくる。
「さっきの子」
「うん」
「先生が言っていた、歌が上手い子ですか?」
「そう」
「ホルンなんですよね?」
「そう」
「今日は指揮?」
「そう」
「なんなの?」
思わず出たような言葉。
笑う。
少し考えて。
以前は、全然わからなかった。
いまなら、少しわかる。
「高校生だよ」
「いやそれはわかりますって」
新田先生。
さらに笑う。
「僕も最初、そう思ってた」
青葉野地域文化交流会。
吹奏楽演奏。
演奏。
青葉野高校吹奏楽部。
指揮。
楠木七菜。
注文の多い。
下手なコンダクター。
でも、悪くは。
なかった。




