10話
「気持ち悪い声がずっと聞こえてたんですよ。まさか貴方ですか」
「はい……」
つい先程まで正気を失っていた僕は羞恥の極みにいた。えくぼができるほど口をすぼめたまま、頬が固まって動かなくなった。顔筋が凍りつくほど僕は恥ずかしかった。
「そうですか」
興味なさそうに本堂さんは中断していた作業に取り掛かった。
蛍光塗料が塗られた銀色のボストンバッグにはプラスチックの試験管が何本かと工具箱が入っている。浄水器の水を含ませた試験紙に薬液を垂らし、何やら反応を見ていた。
本堂さんの眼差しは真剣そのもので、作業に没入していた。僕はまるで置物のように無視された。宝田さんと、ひょっとしたら今井さんもだが表面上の愛想は良かった。しかし、本堂さんは演技の一つもせず機械のように淡々と作業をこなしていた。
暗い土蔵で作業する本堂さんを見る。上下ともにポリエステルの角張った登山ウェアだが、本堂さんのそれはあまりにオーバーサイズで、まるで小さな小学生がレインコートを羽織っているのかのようだ。髪も手入れが面倒なのか無造作にぷつっと切り揃えられたショートボブで、どこか年若く見える。今井さんは健康美から、宝田さんはメイクから大人の女性の雰囲気を演出していたが、彼女は正反対。10代後半の少女のようだ。
「手伝えることはありますか?」
「ないです。もう終わったので」
すくっと立ち上がると僕の横を通り抜けて土蔵を出ていく。
帰るのだろうかと彼女の背中を見ていると、備え付けられたボロボロのベンチに腰掛けてイヤホンを胸の内から取り出した。しばし見つめていると、座っている姿勢だけでは不満なのかフードを頭に被ってベンチに寝転ぶ始末。
山の静寂が彼女のシリコン製イヤホンからわずかに漏れ聞こえる音を僕の耳まで届けさせた。
僕はその場に座り込んで失礼ながらフードの中に隠れる彼女を見ていた。
3分ほどが経ち、酷使した足裏の疲労も僅かに薄れてきた頃、彼女はおもむろにバッグからノートパソコンを取り出すと、タッチパネルを中指でトントンと叩き始めた。
ネット回線のない山奥で何をしているというのか。本堂さんの黙々とした操作は娯楽に興じる行為にはとても見えない。むしろ何かの作業を進めているように見えて……。
「作曲しているのですか?」
気付くと僕は彼女の後ろに立ち、PCの画面を覗き込んでいた。
「違うよ。これは編集」
「ああ編集……え?編集ですか」
「そう。資料をサンプリングして継ぎ接ぎする」
「でもそれ、宇城みきさんの曲ですよね?彼女に怒られませんか」
「みきちゃんは絶賛スランプ中。それにこれは私の曲でもあるから」
ポリエステルのフードがサラサラとこすれる音がする。フードに隠れていて見えないが、彼女は首を回して僕の方を見ているようだった。フードに隠れていて分からないが。
恐らく初めて、彼女が僕を認識した瞬間だった。
「なんで分かったの?」
「……ええと、曲のことですか」
彼女は首肯した。
「多分未発表の曲だと思いますが、なんだが宇城みきっぽいなって。最近ダウナーなの書くじゃないですか。全然一般受けしそうにないやつ」
本堂さんはフードを取って今度こそ僕を見た。僕は思わず目線を下に落としたが、吸い込むような黒く大きな瞳に見られている気がした。
「そう。私逃げてきたの」
「どういうことですか?」
「家にいるとみきちゃんがうるさいから。私が編曲したり編集してるときにとにかく注文が終わらないの。あの子は自分でも曲を作れるけど、作れないときは作りたい曲をいつも私から引き出そうとする」
「ははぁ……」
本堂さんの言葉は落ち着いていて冷たくて、愚痴のような粘り気がなかった。それにしても、宇城みきがまさか合同ペンネームだとは思わなかった。彼女は作風に何処か一貫性がないという世間の風評があった。高い評価を常に受けているからこそ指摘は批判ではなく分析として扱われていたが果たして正鵠を射ていた。実際に二面性が付与されて然るべき制作態勢だったのだ。
「平行線なんですか。どっちかがちょっと譲ったりとか」
「私は譲ってばかりで、みきちゃんは譲ったことはないわ。みきちゃん、自分が出せない音を私に強要するの。永遠に強要してくるの」
「それは大変だ。程々に付き合えればいいのだけれど」
本堂さんは小さく頭を振った。
「突き詰めるとチームでモノを作るってそういうことでしょう。100%を要求する加害者と100%を要求される被害者。どちらかのポジションに適応できなければ、終わり」
僕は思わず苦笑して、口元を手で隠した。
その論理は何だか心に引っ掛かるような……お世話になっている編集者さんの顔が頭をよぎった。
「それで逃げ込んできたわけですか」
「家にいるとみきちゃんうるさいから。あとたまに東屋さんのヒステリックな声も聞こえてくる。だからここで仕事する」
「充電が続かないでしょ」
「下の方に浄水場と発電機がある。そこにコンセント挿して徹夜でやる」
「なるほど……ここを降りれば発電機があるのですか」
切り分けられた細道を見る。正規の登山道であることは間違いなかった。僕が登ってきた地点から50メートルほど離れており、ズレの大きさに我ながら呆れてしまう。
「まっすぐ降りれば行けるわ。岩場が多いから気を付けて」
「下山までどれくらいかかりますかね?今下りても大丈夫?」
「一時間もかからないはず。600メートル級だけど道は真っ直ぐだし」
「え?登るのに3時間かかりましたが……」
「そうみたいね。人間って3時間で発狂できるのね。猿みたいな奇声だったから吃驚しちゃった」
「帰ります。さようなら」
紅潮した頬を襟で隠すと、足早に登山道に入っていった。道を見下すと随分な急登だった。
雨に流されてあちこち土砂が崩れており、木の根が露出している。
最後に本堂さんを見たがもう彼女は画面に釘付けだった。
邪魔をしては悪いと思い僕は山を下りた。




