【第9話:世界の異常と、運命の再会】
「名前を持たない……? いや、そんなはずは……」
ブツブツと何事かを呟きながら、
考え込むように顎に手を当てた深見先生の姿に、
私と真琴は圧倒されて立ち尽くすことしかできなかった。
やがて、深見先生はふっと我に返ったように視線を上げると、
真琴に向かって「君、少し席を外してくれ」と告げた。
「えっ? あ、はい……」
真琴は心配そうに私を何度も振り返りながらも、
促されるままにロビーの奥へと歩いていく。
二人きりになると、深見先生は白衣のポケットに両手を突っ込み、
ステージの上よりも遥かに真剣な、
張り詰めた眼差しで私を見据えた。
「……ここから先は、学者としての仮説ではなく、一人の人間としての警告だ」
「警告、ですか……?」
「もし、そのゲームの男を……いや、
『それ』をもう一度見かけたら、
何があっても関わろうとせず、必ず私に連絡してくれ」
深見先生はそう言って、
胸ポケットから名刺を取り出し、私の手に押し付けた。
「いいか。それは、ただのストーカーでも、
君の精神的ショックによる幻覚でもない可能性がある。
世界のシステムを書き換えてまで君に執着している『何か』だ
。これ以上、君一人の手に負える代物じゃない」
「私の、手に負えない……」
押し付けられた名刺の重みに、
指先が小さく震える。
深見先生の言葉は、
私の混乱をさらに深い闇へと突き落とすには十分すぎるものだった。
ロビーに戻ると、真琴が血相を変えて駆け寄ってきた。
「朝陽先輩……! 深見先生、一体何て……?
やっぱり先輩、何か本当に危ないことに巻き込まれてるんじゃ……」
不安に瞳を揺らす真琴に、
私はこれ以上彼女を怖がらせまいと、
無理に引き攣った笑顔を作ってみせることしかできなかった。
◇
講演会場を後にし、駅前で真琴と別れた私は、
一人で家路についていた。
すっかり日は落ち、街頭には明かりが灯り始めている。
週末の帰宅ラッシュに揉まれながら、
私の頭の中は深見先生の
「世界を書き換えてまで君に執着している」という言葉で満たされていた。
(もし、本当に彼が……キョウが
現実にいるのだとしたら、私はどうすればいいの?)
恐怖と、どこか奇妙な高揚感が混ざり合った感情のまま、
駅前のスクランブル交差点の手前で足止まり、
信号が青に変わるのを待つ。
行き交う大勢の人混み。
そのノイズの向こう側に、私は『それ』を見つけた。
街灯の白い光が、
まっすぐにその男を照らし出していた。
前回の路地裏の時のように、
顔を隠すフードは被っていない。
少し癖のある黒髪に、整った、
けれどどこか現実味のない美しい輪郭。
紛れもない、私のスマートフォンの画面の向こうにいた、あの彼だった。
「あ……」
声にならなかった。
周囲の喧騒が急に遠のき、
世界から音が消えたような錯覚に陥る。
身体が完全に凍りつき、
一歩も動けなくなる私に向かって、
青年は雑踏を割るようにして静かに歩み寄ってきた。
――その歩き方を、少し離れた街角の陰から、
鋭い目で見つめている男がいた。
仕事を終えて会場を出た深見拓だ。
深見は、青年の足運びに、異様なまでの違和感を覚えて息を呑んでいた。
(関節の駆動、重心の移動……。
人間の歩行パターンを完璧にトレースしている。
だが、あまりに『完璧すぎる』。
まるで、数百万通りの人間の歩き方のデータをその場で学習し、
真似しているかのような……!それに瞬きの間隔が、一定すぎる)
(呼吸も、歩幅も、まるで最適化されたプログラムのようだ)
(……いや、違う。人間を真似ているんじゃない、人間という生物を、演算しているんだ。)
深見の背中に、学者としての純粋な戦慄が走る。
そんな周囲の視線に気づく様子もなく、
青年は私の目の前で足を止めた。
けれど、今回の彼には、
あの路地裏の時のような剥き出しの狂気や荒々しさはなかった。
むしろ、ひどく穏やかで、静かな空気をまとっている。
青年は私の怯える瞳を見つめ、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……ようやく、少し落ち着いて話ができそうだな」
「あなた、は……」
「前は悪かった」
青年は静かに、
けれど明確な意志を持って私に語りかける。
「……驚かせるつもりはなかったんだ。
この身体の扱いも、この世界のルールも、
まだよく分かっていなかった。それにお前が逃げるなんて、
考えてもいなかったんだ」
「いや……」
「正確には、逃げられることに耐えられなかった」
それは、まぎれもない「歩み寄り」の言葉だった。
データだった彼が、人間の言葉と、
人間の気遣いを使って、私との距離を必死に埋めようとしている。
その健気さとも言える姿に、
私の胸の奥で、かつて彼に注いでいた愛着が
、恐怖の隙間から小さな芽を覗かせようとしていた。
信号が青に変わり、
周囲の人々が私たちの横を通り過ぎていく。
私は震える唇をなんとか動かし、
どうしても確かめなければならない問いを口にした。
「……名前、を」
「え?」
「名前くらい、教えてください……。あなたが本当に、私の知っている人なら……」
青年は、私の言葉を慈しむように聞き届けると、
少しだけ考えるように視線を落とした。
そして、再び私をまっすぐに見つめ、静かに、けれど深く響く声で答えた。
「……暁だ」
「あきら……?」
「暁」
青年は、夜明け前の深い闇を宿した瞳で
優しく微笑み、その名を口にした。
「今の俺は、そう名乗っている」
行き交う人波の中で、
私たちは互いを見つめ合っていた。
世界の異常がもたらした、運命の再会。
その本当の意味を、私はまだ、何も知らなかった。




