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【第10話:反転する天秤(蓮視点)】

閉店後の静まり返った店内で、

俺はカウンターに両手をつき、ただじっと床の一点を見つめていた。


耳の奥で、さっきまでここにいた朝陽さんの声が、

鋭いガラスの破片のように何度も何度も突き刺さって、

胸をズタズタに切り裂いている。


どうしても一人で抱えきれないという様子で、

駆け込むように店にやってきた彼女は、

怯えと、それから……あきらかな『迷い』の混ざった瞳で、俺にこう言ったのだ。


『……また、会ったんです。あの路地裏の、キョウに似た男の人に』


その瞬間、俺の心臓は大きな音を立てて跳ね上がり、

脳内は激しいパニックで真っ白になった。


また現れたのか。あの男が、彼女のすぐ近くまで。

今すぐ彼女をどこか遠くへ隠さなければいけない、

今度こそ僕が守らなければ、と叫びそうになる。


だが、長年培ってきた「穏やかな店員」としての平穏な理性が、

辛うじて俺の表情を凍りつかせる。


『……そう、ですか』


努めて冷静に、優しく、包み込むような声を絞り出す。

大丈夫ですよ、僕がついていますから。


そう続けようとした俺の言葉を遮るように、

朝陽さんは小さく俯きながら、決定的な言葉をこぼした。


『でも……前みたいに、怖くなかったんです』


(――え?)


思考が、完全に停止した。


『前は悪かったって、驚かせるつもりはなかったって、

謝ってくれて……。人間の言葉で、一生懸命、

私に歩み寄ろうとしてくれた気がして。

……今の俺は「きょう」だって、そう名乗ったんです』


朝陽さんは気づいていない。

自分のその表情が、あの男を拒絶する者のそれではなく、

必死に理解しようと揺れ動いている、

愛おしげな顔になっていることに。


(怖くなかった……? どうして?)


ドクドクと、耳障りな音を立てて血流が激しくなる。

あの日、あんなに震えて、

泣きそうな顔で僕の腕に飛び込んできたのに。


僕が店の鍵を閉めて、

世界中から彼女を匿って、

僕の車で、僕の手で、彼女を安全な場所まで送り届けたのに。


彼女が頼るべき現実の拠り所は、

僕じゃなかったのか?

どうして、あんな素性の知れない、

彼女を脅かす怪物を、

そんなに簡単に受け入れようとしているんだ。


どうして、あの男を理解しようとするんだ。


『朝陽さん』と、その名前を呼んで、

彼女の肩を強く掴み、

僕だけを見てくれと叫びたい衝動が、

身体の奥底から泥泥としたマグマのようにせり上がってくる。


――だが、ダメだ。

そんなことをすれば、僕はあの怪物と同じになってしまう。

彼女に怯えられてしまう。


俺は奥歯が軋むほど強く噛み締め、

胸の中に渦巻く黒い感情のすべてを、

一滴残さず喉の奥へと飲み込んだ。


そして、世界で一番優しい、

いつも通りの「蓮さん」の笑顔を貼り付ける。


「……それでも」

声が震えないよう、細心の注意を払って微笑む。


「まだ、警戒はしてくださいね」


「蓮さん……」


「朝陽さんが傷つくのは……その、

僕も、本当に嫌ですから。

何があっても、あなたの味方でいたいですし、心配なんです」


そう言うと、朝陽さんはホッとしたように

「ありがとうございます」と、

いつもの綺麗な笑顔を見せてくれた。


その笑顔に救われながらも、

俺の心の中は、かつてないほどのくらい冷徹さで満たされていく。


(ああ、僕は……いい人(店員)のままじゃ、いられないかもしれない)


彼女を送り出し、

誰もいなくなった珈琲の香りが残る店内で、

俺は自分の右手をじっと見つめた。


あの日、怯える彼女を助手席に乗せ、

守るように送り届けた、現実のあの時間。

あの車内の温もりを、あの男に明け渡すことなんて、絶対にできない。


これまでの俺の想いは、

彼女を陰から支えるだけの、

見返りを求めない純粋な献身だったはずだ。


それなのに、あの日植え付けられた独占欲の種は、

彼女の『怖くなかった』という一言を栄養にして、

一気に黒い芽を伸ばし、俺の心を侵食していく。


まだ、狂気には染まっていない。

けれど、俺の心の天秤は、完全に一線を超えた。


(あの男を……消したい)


初めて本気で、胸の奥でそう願った。

朝陽さんの世界に、あの男はいらない。


彼女の恐怖も、秘密も、

そしてその隣に立つ資格も、

すべて僕だけのものだ。

外はしとしとと静かな雨が降り始めていた。

窓ガラスに映る自分の笑顔が、どこか酷く歪んで見えた。



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