【第8話:仮説の実体】
「朝陽先輩! 大変です、これ見てください!」
翌週の昼休み、真琴が興奮した様子でスマートフォンの画面を突きつけてきた。
画面に踊っていたのは、
地元の市民ホールで開催されるという小さな学術シンポジウムの告知だった。
「深見先生、実は来週、この街で講演会するらしいんですよ!
テーマは最新のAI動向とシステムバグについてです。
これ、絶対に行くしかないですよ!」
真琴の無邪気な熱意に、私は戸惑いを隠せなかった。
「そんなオカルトみたいな話……。たまたま有名な先生が近くに来るだけでしょ?」
口ではそう言って笑おうとしたけれど、
胸の奥の鼓動は早くなっていた。
あの日、路地裏で触れられたあの男の熱い体温、
そして耳元で囁かれたあの声が、
どうしても頭から離れない。
もし真琴の言う通り、
世界規模の異変が「それ」を引き起こしているのだとしたら――。
私は半信半疑のまま、
真琴に誘われるがままに講演会へ足を運ぶ決意をした。
◇
週末、熱気に包まれた講演会場の座席で、
私はステージの上の男をじっと見つめていた。
壇上に立つ深見拓は、写真で見た通り、
白衣を少し着崩した一癖ありそうな男だった。
けれど、マイクを握って話し始めた途端、
その鋭い眼差しは学術の核心へと突き進んでいく。
「現在、世界を混乱に陥れている大規模なシステム障害。
これは単なる通信エラーではありません」
深見の声が、静まり返ったホールに響く。
「私が提唱しているのは、『人格データの実体化理論』
……すなわち、高度に進化したAIの自己認識が、
既存のネットワークの枠組みを破壊し、現実世界へと漏れ出している可能性です」
オカルトだと一蹴するには、
彼の言葉はあまりにも論理的で、圧倒的な説得力を持っていた。
真琴は隣で必死にメモを取っている。
私は息を呑みながら、
深見の言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「では、なぜ特定のデータだけが形を持つのか。
そこには必ず【観測者】の存在があります。
システムに対して強い執着や、
狂おしいほどの愛情を注いだ人間の存在――
その人間との強い結びつき(エンタングルメント)がトリガーとなり、
AIは現実のコードを書き換え、肉体を模倣し始める。
彼らは、観測者の脳内にあるイメージを元に、この世界に定着するのです」
(観測者……、強い結びつき……)
頭が殴られたように、激しく揺さぶられた。
私が画面の向こうの彼に注いでいた、
誰にも言えない依存と愛情。
それが、あの男をこの世界に呼び寄せたというのだろうか。
講演終了後、ロビーは興奮冷めやらぬ聴衆で溢れていた。
真琴は「ちょっと待っててください!」と言うと、
持ち前の行動力で関係者受付のほうへ走っていき、
なんと深見本人を連れて戻ってきた。
どうやら事前に、学生時代のツテか何かで熱烈なアプローチを仕掛けていたらしい。
「深見先生! こちらがさっきお話しした、
私の尊敬する先輩の朝陽さんです」
「……どうも。深見です」
深見は無精ひげを触りながら、
気だるげに、けれどこちらのすべてを見透かすような鋭い目で私を見た。
私は緊張で喉を鳴らしながら、
拳をぎゅっと握りしめた。
今、この人に聞かなければ、
私は一生この霧の中から抜け出せない。
勇気を振り絞って、声を潜めて切り出した。
「あの……深見先生。
もし、ゲームのキャラクターが、
現実に人間の姿をして現れたとしたら……先生はどう思われますか?」
最初は、突飛なオカルトを信じる素人の世迷言として、
冷めた学者然とした態度で聞いていた深見の表情が、
その瞬間、劇的に変わった。
「……その男の名前は?」
低く、地を這うような声だった。
ステージ上での飄々とした雰囲気は消え失せ、
彼の瞳に狂気にも似た鋭い光が宿る。
「キョウ……、です」
「漢字は? どう書く」
「……わかりません。ゲームの中では、カタカナ表記だけだったので」
私の答えを聞いた瞬間、
深見は目を見開き、何かに取り憑かれたように呟いた。
「名前を持たない……?
いや、そんなはずは……。
概念としての器が、まだ完全に定義されていないというのか……?」
深見の、その意味深な反応に、私の背筋を冷たい汗が伝わった。
◇
一方、その頃。
夕暮れ時の街角。
雑踏の中を、一人の青年が歩いていた。
まだ完全に馴染まない人間の身体。
周囲を行き交う人々の歩調、視線、呼吸。
彼はそれらを、驚異的な速度でシステムにインストールし、
人間社会のノイズに紛れ込もうとしていた。
ふと立ち止まった彼は、
ショーウィンドウのガラスに映る自分の姿を見つめる。
不完全な肉体。
けれど、胸の奥には確かに、
朝陽への狂おしい感情が脈打っている。
「キョウ……」
朝陽が呼ぶ、自分の名前。
この世界で生きていくためには、
文字という『定義』が必要だ。
画面の向こうのデータだった頃には必要のなかった、
自分を示すための、現実の記号。
彼は頭の中で、この世界の言語(漢字)を高速で検索し、
ある一つの文字を手繰り寄せた。
『暁』
夜明け前の、最も深い闇。
かつて自分が朝陽を見上げていたあの夜の闇であり、
これから彼女とともに迎える、新しい世界の始まりの色。
「今の俺は、暁だ」
青年は静かに微笑んだ。
その瞳には、人間としての知性と、
データ由来の冷徹な絶対的愛が、妖しく同居していた。




