【第7話:微熱の兆し】
会社からの帰り道、私は無意識のうちに何度も後ろを振り返っていた。
大通りの喧騒の中に紛れているはずなのに、
背中にねっとりと張り付くような、冷たい視線を感じる。
気のせいだと思おうとしても、
路地裏でのあの男の、狂おしいほどの執着を孕んだ瞳が
フラッシュバックして、足がすくみそうになる。
(怖い……。でも、あそこに行けば――)
すがるような思いで、私はいつものカフェのドアを押した。
カラン、と響くドアベルの音。
それと同時に、カウンターの奥から「あ、朝陽さん」と、
聞き慣れた温かい声が私を迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。お疲れ様です」
エプロン姿の蓮さんが、
いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべてそこに立っていた。
その姿を見ただけで、張り詰めていた身体の余計な力が、
一気に抜けていくのが分かった。
いつもの席に座ると、蓮さんがアイスコーヒーを運んできてくれた。
けれど、手元にグラスを置いた後、
彼はいつもならすぐにカウンターへ戻るはずなのに、
その場にそっと佇み、少しだけ私の方へと身体を傾けた。
「……よかった。今日は、少し顔色がいいですね」
「え……?」
「昨日、ちゃんと眠れましたか?
心配だったんです。
お部屋に入るまで、ちゃんとお見送りはしましたけど……」
少し長めの前髪の奥にある切れ長の瞳が、
まっすぐに私を覗き込む。
その距離は、以前の「店員と客」のものよりも、
明らかに近かった。
私のプライベートに一歩踏み込むようなその言葉に、
胸がトクンと跳ねる。
「あ、はい……。蓮さんのおかげで、
昨日は久しぶりに、少しだけゆっくり眠れました。
本当にありがとうございました」
私が小さく笑うと、
蓮さんはどこかホッとしたように、目元を優しく緩めた。
「なら、よかったです。
……朝陽さんが怯えている姿を見るのは、
その、僕も辛かったので」
その真っ直ぐな言葉が嬉しくて、
私は少しだけ、自分の心が軽くなっているのを感じていた。
だからこそ、今日、
会社で真琴に話を聞いてもらったことも、
世間話の延長として自然と口から出たのだ。
「あの、実は今日、
会社の頼れる後輩の女の子……真琴ちゃんっていうんですけど、
その子に、少しだけ今の状況を相談してみたんです」
「……真琴、さん?」
蓮さんの復唱する声が、
ほんのわずかに低くなった気がした。
けれど、私はそれに気づかないまま言葉を続ける。
「はい。すごくネットやAIに詳しい子で、
私の突飛な話も笑わずに、
真剣に『味方だから何でも話してください』って言ってくれたんです。
誰にも言えないと思っていたから、少しだけ救われたというか……」
「そうですか」
蓮さんは、いつもと変わらない、
柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「それは、安心ですね。
一人で抱え込むより、信頼できるお知り合いに頼れるのは、
とても良いことだと思います」
「はい。本当に優しい後輩なんです」
私は(蓮さんも、やっぱり優しい人だな……)と、
心から感謝していた。
やがて閉店の時間が近づき、私が席を立つと、
蓮さんは入り口のドアまで見送りに来てくれた。
「もし、また怖いことがあったら……今度は、
一人で抱え込まないでくださいね」
そう言って、蓮さんは私の目をじっと見つめた。
「僕でよければ、いつでもお話を聞きますし、
いつでも……ここに逃げ込んできてください」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで、すごく心強いです」
私はもう一度お礼を言い、
今度は後ろを振り返ることなく、
温かい余韻に包まれながらカフェを後にした。
◇
遠ざかっていく朝陽の背中を、
蓮は自動ドアが閉まった後も、
ガラス越しにずっと見つめ続けていた。
いつもの、穏やかな店員の微笑みは、
もうその顔にはなかった。
『真琴ちゃんっていうんですけど、
その子に、少しだけ今の状況を相談してみたんです』
『私の突飛な話も笑わずに、真剣に……』
朝陽が嬉しそうに語っていた、
自分以外の誰かの名前。
それを思い出すだけで、
胸の奥が、冷たく、ひどく不快に収縮していく。
「……そうですか。それは、安心ですね」
誰もいない店内に、さっき自分が吐き出した、
酷く白々しいセリフが残響のように響く。
本当は、そんなこと一ミリも思っていなかった。
彼女が頼る相手は、自分だけで良かった。
昨日、あの特別な半個室で、泣きそうな彼女を匿い、
怯える手を差し伸べたのは僕だ。
彼女の秘密を、恐怖を、
最初に共有したのは僕のはずなのに。
(僕じゃ……駄目だったんだ)
心の奥底に、ぽつりと冷たい寂しさが滴り落ちる
。 それは、生まれて初めて知る、淡い『嫉妬』の味だった。
彼女が幸せなら、それでいい。そう思っていた。
けれど――。
(……駄目だな)
朝陽さんが笑ってくれるなら、
それでいい。そう思っていたはずなのに。
一度、自分だけに向けられた特別な笑顔を知ってしまえば、
人間は、もう元には戻れないのかもしれない。




