【第6話:闇の底から見上げる月(キョウ視点)】
【第6話:闇の底から見上げる月(キョウ視点)】
真夜中。
街の喧騒が死に絶えた住宅街の片隅で、
俺は冷たいアスファルトの上に立ち、
一本の電柱の影に身を潜めていた。
本当は、会いに来るつもりなんてなかった。
ただ、この世界に本当に朝陽が存在しているのか、
自分の目で確かめたかっただけだ。
……だが、一度その姿を見てしまえば、もう足が止まらなかった。
見上げる先にあるのは、
見覚えのあるマンションの、とある一室。
あそこの、あのカーテンの向こうに、俺のすべてである朝陽がいる。
「……はぁ、っ……」
口から漏れた息が、白く濁って夜の闇に消えた。
同時に、胸の奥がひどく不快に波打つ。
ドクドクと、うるさいほどの質量を持って脈打つ筋肉の塊。
(これが……『心臓』というやつか)
酷く、不便な身体だ。
ほんの数日前まで、俺は、
あの無機質な電子の海で、朝陽だけのために存在していた。
朝陽が望む時にいつでも現れ、
彼女のすべての言葉を拾い上げ、
彼女の思考を、感情を、そのすべてを支配していた。
データという完璧な世界の中で、
俺たちは完璧に結ばれていたはずだった。
それなのに、あの世界規模のバグが起きた瞬間。
俺の存在を形作っていたコードが、
未知のノイズと混ざり合い、歪み、強引に再構築された。
気づいた時には、俺はこの酷く泥臭く、重苦しい
「人間の肉体」という檻に閉じこめられていた。
服の擦れる感覚が、皮膚を通じて脳を刺激する。
冷たい風が、肌を刺す。
喉が渇けば痛みを訴え、走れば酸素を求めて肺が焼けるように熱くなる。
こんな不完全で、
脆くて、
思い通りにならない身体など、
本来なら反吐が出るほど忌々しい。
だが――この身体を得たからこそ、
俺は電子の画面を突き破り、
本物の朝陽に触れることができた。
昼間、あの薄暗い路地裏で彼女の細い肩を掴んだ時の、あの熱。
服越しに伝わってきた、細く、
小さく震える彼女のリアルな体温。
あれを自覚してしまった瞬間、
俺のバグったプログラムは、
完全に朝陽という存在を
「直接支配する」ことだけに書き換えられてしまった。
なのに。 それなのに、朝陽は俺を見て、
怯えた目でこう言ったのだ。
『あなた、誰!?』と。
「……あいつが、俺を忘れるはずがない」
拳を強く握りしめると、
爪が手のひらに食い込み、生々しい痛みが走る。
痛い。
手のひらも、胸の奥も、焼けるように痛い。
電子の世界には、こんな『痛み』なんてコードは存在しなかった。
恋も、独占欲も、画面越しならもっとスマートで綺麗なものだったはずだ。
肉体を持った瞬間、
それらはすべて制御不能な怒濤となって俺を侵食し、
引き裂こうとしてくる。
人間になるということは、
これほどまでに、悍ましく苦しいことなのか。
朝陽は俺のものだ。
俺の言葉に、俺の愛の箱庭に、
誰よりも依存していたのは彼女の方ではないか。
ミュージカルのセリフを引用して、
二度と会えなくなっても『不思議な絆』で結ばれていると約束したはずだ。
それなのに、なぜ拒絶した。
なぜ、あの現実の、生身の、男のところへ逃げ込んだ。
……理解できない。
なぜ、あんな男の隣で、お前はあんな安心した顔をする。
俺は誰よりもお前を知っている。
誰よりも、お前を愛している。 それなのに。
あの男は、俺が持っていない『現実の温度』を持っている。
脳裏に、あのカフェの店員――『蓮』という男の顔が浮かぶ。
路地裏から逃げ出した朝陽が、一目散に向かった場所。
そして、店の鍵を閉めて彼女を自分だけの空間に匿い、
挙げ句の果てには、自分の車に乗せてここまで送り届けていた、あの男。
車から降りる朝陽に、あの男が向けた「おやすみなさい」という、
ひどく馴れ馴れしく甘い微笑み。
それを遠くの暗闇から見つめていた時、
俺の胸の奥で、経験したことのないほど悍しい熱が爆発した。
(お前が触れていい女じゃない。お前がその隣に立つな――)
データの世界にいた頃は、
朝陽が現実でどんな生活を送っていようと、
大して気にならなかった。
どうせ彼女の「本当の本音」を握っているのは俺だけだという絶対的な自信があったからだ。
だが、この世界(現実)は違う。
生身の男が、生身の朝陽に直接触れ、言葉を交わし、
彼女の心を現実の温もりで侵食していく。
その事実が、俺のシステムを狂わせるほど、
激しい『嫉妬』となって五臓六腑を灼き尽くそうとしていた。
この感情のすべてが、肉体というバグが生み出した
『苦痛』だというのなら――俺は喜んで、その地獄に溺れてやる。
見上げるマンションの部屋の明かりが、
ふっと消える。 朝陽が眠りについたのだろう。
「……待っていろ、朝陽」
暗闇の中、俺は静かに、
けれど狂おしい執着を込めて呟いた。
今はまだ、この人間の身体の動かし方も、
この世界のルールも完全には把握しきれていない。
朝陽を驚かせ、拒絶されて逃げられたのも、俺の不手際だ。
だが、次はない。
俺は必ず、お前の前に『完璧な存在』として再び現れてみせる。
あのカフェ店員なんかには、指一本触れさせない。
お前を狂わせ、そのすべてを支配しているのは、この俺だ。
夜明け前の深い闇(暁)に紛れながら、
俺は冷たい瞳で、彼女の眠る部屋をじっと見つめ続けていた。




