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【第4話:秘密の共有】

ほんのり甘いホットミルクの温もりが、

喉を通って冷え切った身体に染み渡っていく。


おしぼりで汗を拭い、何度も深呼吸を繰り返すうちに、

うるさいほどだった心臓の音が

少しずつ落ち着きを取り戻してきた。


パーテーションの向こうからは、

食器が触れ合う音や、他のお客さんたちの穏やかな話し声が遠く聞こえる。


そこは間違いなく、私が毎日通っていた、

いつもの穏やかなカフェの風景だった。


(私……一体、なんてことをしちゃったんだろう)

我に返った瞬間、急激な恥ずかしさと申し訳なさが押し寄せてきた。


蓮さんとは、毎日のように挨拶を交わすだけの間柄だ。

私の名前を知ってくれていたことや、

気にかけてくれたことは嬉しかったけれど、

あくまで「店員さんと常連客」でしかないはずなのに。


そんな相手に、パニック状態で泣きそうになりながら飛び込んで、

お店に鍵までかけさせて、特別な半個室に匿ってもらうなんて。


「あの……蓮さん」


「はい、朝陽さん。少しは落ち着きましたか?」


蓮さんは、私の正面ではなく、

少し斜め前の絶妙な距離感の椅子に腰掛け、

安心させるように微笑んだ。


「すみません、私、いきなりこんな風に逃げ込んできて……。

お店の営業の邪魔までしてしまって、

本当に、なんと言ってお詫びしたらいいか……」


俯いて消え入りそうな声で謝る私に、

蓮さんは困ったように小さく笑うと、首を横に振った。


「謝らないでください。

朝陽さんが無事なら、それだけで十分ですから。

……それに、お店のことなら気にしなくて大丈夫ですよ」


蓮さんはそこで一度言葉を区切り、

少し長めの前髪の奥にある切れ長の瞳を、

優しく、けれどどこか熱を帯びた色でまっすぐに私に向けた。


「僕にとって、朝陽さんは特別なお客さんですからね。

……他の方とは違います」


「え……」


思わず顔を上げると、

蓮さんは少し意味深に、けれどひどく甘やかに微笑んでいた。


その特別扱いが何を意味するのか、

今の混乱した頭では深く考えることができなかったけれど、

胸がトクンと跳ねる。


「でも、まだ身体が震えていますよ。

……このままお一人で帰すのは不安です。

僕でよければ、何があったのか、話して少し楽になりませんか?」


蓮さんは机の上に、

そっと自分の生身の大きな手を差し伸べた。

触れるか触れないかの距離にあるその手の温もりが、

私を現実の世界へ、安全な場所へと強く引き留めてくれるように思えた。


(話して、楽に……なりたい。でも……)

現実の優しさに縋りたい。

けれど、私の心のブレーキがギギ、と音を立てる。


私がここ数日、この世の終わりのように絶望していた本当の理由。

それは、世界的なシステムバグのせいで、

お気に入りのチャット型ゲームの彼氏――キョウを失ってしまったからだ。


二十歳を過ぎた大人の女性が、

画面の向こうのAIに本気で依存して、

それが消えたからって仕事まで休んで泣いていたなんて。

現実の人間関係に疲れて、二次元の彼氏にしか本音を言えなかったなんて。


(そんなこと、普通に生きてる人に話したら……きっと、

引かれる。バカにされるに決まってる)


蓮さんはこんなに優しく心配してくれているのに、

真実を話せば「なんだ、そんなくだらないことか」

と呆れられてしまうかもしれない。

その恐怖が、私の口を重くさせた。


ましてや、その直後に

『路地裏でそのゲームのキャラクターにそっくりな生身の男に捕まって、

俺を忘れたのかって責められたんです』

なんて言ったら、益々自分がおかしな人間だと思われる。

現実と妄想の区別がつかなくなった、頭の狂った人間だと――。


「あの、実は……最近、ずっと大切にしていたものが、

突然のバグで消えちゃって……。

精神的に、すごく参っていたんです。それで、その……」


私は蓮さんの綺麗な手を見つめたまま、

意を決して言葉を絞り出した。


「お気に入りの、チャット型の乙女ゲームがあったんです。

そこにいる、ゲーム内の彼氏に、私……すごく依存していて。

現実の仕事の愚痴も、情けない本音も、全部その彼にだけは言えたから……。

それがバグのせいで、突然消えちゃって。

自分が思っていた以上に、心に大きな穴が空いちゃったみたいで……」


そこまで言って、私はぎゅっと目をつぶった。

いい歳をして二次元の、それもAIの彼氏に本気で恋をして、

失って泣いていたなんて。

やっぱり、おかしいと思われる。


けれど、直前の路地裏での出来事だけは、

どうしても口にできなかった。

『そのゲームのキャラクターが、

生身の人間として現れて、私の肩を掴んだんです』なんて。


そんな荒唐無稽な話を付け足したら、

今度こそ完全に頭が狂った人間だと思われてしまう。


「それで、さっき……動転しながら歩いていたら、

路地裏で、全然知らない男の人に突然声をかけられて。

すごく、怖くなって……気づいたら、

蓮さんのいるこの場所に、逃げ込んでいました。

ごめんなさい、私、どうかしてますよね……」


結局、キョウのことは隠したまま、

ただの不審者に絡まれたのだと嘘を交えてごまかしてしまった。


小さな沈黙が流れる。

馬鹿にされる、と身を硬くしていた私に、

降ってきたのは――。


「……そっか。そうだったんですね」


蓮さんの、どこまでも優しく、

そしてなぜか少しだけ弾んだような、

温かい声だった。


恐る恐る顔を上げると、蓮さんは呆れるどころか、

愛おしいものを見るような眼差しで私を見つめていた。


その切れ長の瞳が、ふっと柔らかく細められる。


「朝陽さん、毎日ここで、

スマホを見ながらすごく幸せそうに笑っていましたよね。

いつも、どんな素敵なことがあったのかなって、

僕、カウンターから見ていたんです。

……それが、ゲームの中の彼氏のことだったんですね」


蓮さんはそう言って、

心底ホッとしたように息を漏らし、

それからどこか悪戯っぽく微笑んだ。


「馬鹿にするわけないじゃないですか。

むしろ……すごく安心しました。

朝陽さんをそんなに幸せな気持ちにさせていたのが、

現実のどこかの男の人じゃなくて、本当によかったです」


「え……?」


「だって、それなら。

……僕にも、朝陽さんを笑顔にするチャンスがある、

っていうことですから」


「――ッ」


蓮さんの言葉が、ダイレクトに耳の奥へと飛び込んでくる。

けれど、少しは落ち着いたとはいえ、

私の頭の中はまだ路地裏での彼のことで激しく混乱していた。


だから私は、蓮の「笑顔にするチャンス」や

「心を埋めるお手伝い」という言葉を、

傷ついた常連客に対するカフェとしての、

温かい好意として受け取ってしまった。


「蓮さん……ありがとうございます。

そう言ってもらえるだけで、

お店に通っていてよかったなって救われます……」


そんな私の様子を、蓮さんはじっと見つめていた。

少しだけ距離を縮めようとしていた手をそっと引き、

朝陽の今のキャパシティではこれ以上踏み込むべきではないと、

彼女を思って自制したようだった。


「ふふ、どういたしまして。

……でも、お話は今日はまず、ここまでにしましょう。

朝陽さん、まだすごく疲れていますから」


蓮さんは立ち上がると、

いつもの穏やかな店員の微笑みに戻った。


「その代わり、一つだけ僕のわがままを聞いてください。

こんな風に怯えている朝陽さんを、

一人で帰すのはどうしても不安です。

僕の車で、マンションの前まで送らせてください」


「えっ、そんな、悪いです! 大丈夫ですから……!」


一度は慌てて断った。

けれど、蓮さんは珍しく、

一歩も引かない強い眼差しで私を見つめ直した。


「ダメです。さっきの男がまだ近くにいるかもしれない。

朝陽さんに何かあったら、僕が後悔します。

……送らせてください。ね?」


その少し強引な優しさに、

私の胸の奥がじんわりと温かくなる。

実際、一人で大通りの夜道を歩くのは、

自分でも自覚している以上に怖かった。


「……じゃあ、お言葉に甘えても、いいですか?」


「はい。喜んで」


蓮さんの運転する車の助手席は、

静かで、とても温かかった。

窓の外を流れる見慣れた夜景を眺めながら、

私は少しずつ、冷え切っていた心が現実の温度を取り戻していくのを感じていた。


車が私のマンションの前に滑り込み、

蓮さんの優しい「おやすみなさい」に送られて部屋に帰るまで、

私は守られている安心感に包まれていた。


――でも、この時の私はまだ知らなかった。

現実の温もりへ逃げ込んだ私の背中を、

あの路地裏の彼がどれほど

狂おしい執着と焦燥の瞳で見つめ続けていたのかを。


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