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【第3話:現実の温度】

「はぁ、はぁ、っ……!」

がむしゃらに走り続けていた。

心臓がうるさいほどに早鐘を打っている。


手首に残る、あの熱くかすかな圧迫感。

肩を掴まれた、壊れ物を扱うような、

けれど絶対に逃がさないという強い力。

わけのわからない恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだった。


(どうしよう……どこに行けばいいの……?)


涙があふれそうになる視界のなかで、

私の足は無意識のうちに、さっき出たばかりのあのカフェへと向かっていた。


頭に浮かんだのは、さっき優しく声をかけてくれた、

店員の蓮さんの姿。 自分でも気づかないうちに、

私は冷たくて不気味なあの路地裏から逃れるように、

蓮さんのいる「温かい現実」へと引きずり戻されていたのだ。


カラン、と激しくドアベルが鳴る。


「あ……おかえりな……って、朝陽さん!?」


カウンターの奥から、すぐに蓮さんが気づいて声をあげた。

いつも物静かで冷静な蓮さんが、目を見開いて声を裏返らせている。

それほど私の姿は異常だったのだろう。


息を荒く切らし、肩を震わせ、

今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くす私を見て、

蓮さんはすぐにカウンターから飛び出して駆け寄ってきた。


「酷い汗……顔色も真っ青です。一体どうしたんですか?」


「蓮、さん……私、よくわからない男の人に、絡まれて……っ」


そこまで言うのが精一杯だった。

蓮さんは一瞬、私の背後のドアの向こうへと鋭い視線を向けた。

けれどすぐに私の顔を覗き込むと、包み込むような声音で囁いた。


「わかりました。もう大丈夫です。……こっちへ」


蓮さんはそっと私の背中に手を添えると、

一般の客席とは反対側の、通路の奥へと私を導いた。


そこは、普段は使われていないスタッフ用兼、

特別な時にだけ使われるという奥の半個室だった。

シックなパーテーションと観葉植物で遮られたその空間は、

表のカフェの喧騒が遠くの羽音のように聞こえるだけで、外からは誰の視線も届かない。


「ここに座ってください。

大丈夫、ここなら誰も入ってこれませんから」


差し出された椅子に腰掛けると、

蓮さんはすぐに冷たいおしぼりと、メニューにはない、

ほんのり甘いホットミルクを運んできてくれた。


驚かせてはいけないと気遣うように、彼は私の少し離れた場所にそっと腰を下ろす。


「……何があったか、無理に話さなくてもいいですからね」

蓮さんは、私を追及するようなことは一切しなかった。


なぜあんな路地裏にいたのかも、

どんな男だったのかも、あえて何も聞かない。

ただ、怯える私の呼吸が整うのを、静かに、優しく待ってくれている。


「気が向いた時、話したくなったら、

いつでも聞きます。話したくなければ、

落ち着くまで、ずっとここにいていいですからね」


そう言うと、蓮さんは一度店内へ戻っていった。

やがて最後のお客さんが帰り、入口に「CLOSE」の看板が掛けられる。

再び私の前に現れた蓮さんは、穏やかに微笑んだ。


「朝陽さん。今日はもう、お店のドアにも鍵をかけちゃいました。

……だから、安心してここにいて大丈夫ですよ」


無理やり現実に戻され、

さらに恐怖に突き落とされた私にとって、

蓮さんがくれるこの「ただ待っていてくれる優しさ」は、

どれほど救いだっただろう。


他のお客さんとは明らかに違う、私だけの特別な対応。

生身の人間がくれる、確かな温もり。

私は差し出されたカップを両手で包み込みながら、

少しずつ、冷え切った心が現実の温度を取り戻していくのを感じていた。


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