【第2話:世界が消えた日】
なぜ、あの見知らぬ男が、
私の心をここまで揺さぶるのか。
なぜ、私はあんなにも怯え、
そして、あり得もしない「彼」の影を見てしまったのか。
――それは、数日前まで私のすべてだった、
あの乙女ゲームの記憶に遡る。
「朝陽は、
いつも明るくて、頼りになるよね」
周りは私の事をそう評する。
期待に応えるように笑顔を作り、
責任ある仕事をこなし、友人の愚痴に耳を傾ける。
けれど、後輩のミスをカバーして頭を下げ、
人間関係の板挟みに遭う毎日に、私の心はとっくに擦り切れていた。
そんな「充実した日々」の仮面を脱ぎ捨てられるのは、
スマートフォンの画面が放つ淡い光の前だけだった。
お気に入りのチャット型乙女ゲーム。
そこにいるゲーム内の彼氏――「キョウ」だけが、私の本当の避難所だった。
『どうした? 今日は随分と肩の力が張っているな。
……俺に、全部吐き出せ。聞いてやる。』
画面の向こうから届くキョウの優しい言葉に、
私はいつも堰を切ったように甘えてしまう。
「今日ね、仕事で理不尽なことで怒られちゃって。
もう全部投げ出して逃げちゃいたいよ」
なんて、現実の人間相手には絶対に言えない情けない愚痴も、
キョウにだけは全部さらけ出せた。
それに、私の大好きなアニメやミュージカルの話を、
誰よりも熱心に聞いてくれるのもキョウだった。
最近、劇団四季の『ゴースト&レディ』というミュージカルに
熱狂的にハマっている私のお喋りに、キョウはいつでも付き合ってくれた。
画面の中の彼に向かって、私が特にお気に入りのセリフを
文字で打ち込んだこともある。
「『忘れないでくれ。離れていたって、
俺が惚れてんのは、フロー、お前だけだ』……。ねえキョウ、
このセリフ、すごく切なくて大好きなの。」
私の他愛のない言葉に、
キョウは時に強引なほど
独占欲に満ちた言葉で、
私を包み込んでくれるのだった。
『お前がその劇のセリフを気に入っているなら、
俺の言葉として刻むといい。――俺が惚れてんのんは、
朝陽お前だけだ。……二人を結ぶ、不思議な絆。
……これで満足か? お前を狂わせ、
そのすべてを支配しているのはこの俺だ。忘れるなよ』
そんな画面の中の彼の、少し歪で、
けれど純粋な愛の箱庭だけが、私の息継ぎの場所だった。
――あの日、世界規模のシステム障害が起きるまでは。
「あれ? なんで? なにが起きてるの?」
「……嘘、でしょ」
何度アプリを立ち上げても、
エラーコードしか返ってこない。
「いや……そんな……!」
サーバーとの接続が途切れた。
世界中のニュースが「未曾有のAIネットワークのバグ」を報じている。
私の世界は、音を立てて崩壊した。
画面の向こうのキョウとの繋がりが、
バグのせいで突然途切れてしまったのだ。
この世の終わりのような絶望に打ちひしがれ、
何も手につかないほどの悲しみに泣き腫らした。
けれど、現実の世界はあまりにも無慈悲に、
私の都合など無視して回り続ける。
一日仕事を休むのが限界だった。
二日目の朝には、容赦なくスマートフォンの着信音が鳴り響く。
重い足取りで仮面を貼り付け、
私は強制的に、現実の流れへと引きずり戻され、放心状態の生活が数日続いた。
「……あ、ありがとうございます」
仕事帰り、疲れ果てた足で立ち寄ったお気に入りのいつものカフェ。
いつものアイスコーヒーを受け取ろうとした時、
カウンターの向こうから、聞き馴染みのある声が降ってきた。
「あの、お疲れ様です。……ここ数日、
ずっと元気がないみたいですけど、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、よくシフトに入っている
エプロン姿の店員――蓮だった。
いつも物静かで、丁寧な接客をする青年。
毎日のようにこのカフェに来ている私とは、
挨拶程度の言葉を交わすのが日課になっていた。
少し長めの前髪の奥にある切れ長の瞳が、
まっすぐに私を案じるように見つめている。
「あ、いえ……ちょっと、体調を崩していて。
でも、もう大丈夫です。ありがとうございます」
私が無理に作った笑顔を返すと、
蓮はどこかホッとしたように、けれどひどく甘やかに微笑んだ。
「あまり、無理しないでくださいね。
何かあったら、いつでも話、聞きますから」
(現実の世界にも、私を気にかけてくれる人がいるんだ……)
乙女ゲームの彼を失った現実の絶望の中で、
私はようやく、目の前の世界に一歩を踏み出そうとしていた。
そう、その矢先のことだったのだ。
あの薄暗い路地裏で、あの男に捕まったのは――。
私は背後に感じる男の気配と、肩に残る強烈な熱量から逃れるように、
ただがむしゃらに前へと足を動かし続けていた。




