【第22話:反転する境界】
夜明け前のカフェ。あの日から、蓮の時間は止まったままだった。
誰もいない暗い店内で、蓮はぽつりとカウンターに腰掛け、
スマートフォンの画面を見つめていた。
画面に映る朝陽の写真は、どれも怯えたように視線を彷徨わせているものばかりだ。
『私のために、あんなに一生懸命になって、
守ろうとしてくれて……本当に、ありがとうございました。嬉しかったです』
あの日、店を去っていく朝陽が残した声。
何度もその言葉を脳内で再生するたび、蓮の胸の奥で、どす黒い感情がとぐろを巻いた。
朝陽さんは、騙されている。
あのバグ(暁)の、甘い言葉に。
彼女を恐怖に陥れた元凶のくせに、人間の姿を手に入れた途端、
被害者のような顔をして彼女の隣に収まっている。
深見先生だってそうだ。
あれほどAIの危険性を説いていたのに、今やあの怪物を熱心に観察し、
まるで新しい人類の誕生でも喜ぶかのように肩入れしている。
「どうして誰も、僕を見ないんだ……」
ぽつりと溢れた呟きは、怒りと絶望で酷く震えていた。
深見にも裏切られ、朝陽も自分を選ばなかった。
世界中で、自分だけが置き去りにされ、見捨てられたような底なしの孤独。
けれど、蓮の瞳の奥で、ふっと昏い光が灯った。
違う。
間違っているのは僕じゃない。
世界の方だ。
誰もあの怪物の本質を見抜けないのなら、
僕が、僕だけが朝陽さんを救い出さなきゃいけない。
「僕が守らなきゃいけないんだ。朝陽さんだけは、僕が正気に戻してあげる……」
蓮はゆっくりと立ち上がり、深見先生との共同作業の中で、
一度だけ見せてもらった実験資料。
人間の認知領域と、AIの情報処理領域を接続する理論モデル。
当時の自分には理解できなかった。
けれど今なら、その意味が分かる。
深見が暁の脳内からAIとしての情報処理を消去し、
人間に近づけることができるというのなら――その逆も、また可能なはずだ。
人間の脳は曖昧で、不完全で、すぐに大切なものを見失う。
だから朝陽さんは僕を選ばなかった。
もし、僕の脳のネットワークを拡張し、
世界中の電子の海から朝陽さんという存在だけを24時間いつでも見つけ出し、
監視し、予測できる『情報脳』を手に入れられたら。
あいつが人間(不完全)になっていくなら、
僕はAI(完全)になればいい。
そうすれば、今度こそ完璧に、彼女をあらゆる脅威から隠してあげられる。
「待っていてくださいね、朝陽さん。今、助けに行きますから
そして今度こそ、僕だけを見ていてください。」
鏡に映った自分の顔は、驚くほど穏やかで、純粋な善意に満ちていた。
引き裂かれるような絶望の末に、蓮は狂気の引き金を引いた。
朝陽を愛するというあまりにも人間らしい執着のために、
自ら人間であることを捨て去る道を選んだ男の、
破滅へのカウントダウンが静かに始まった。




