【第21話:はじめての世界】
「……暁くん、ストップ! 赤信号!」
「あさ、ひ……?」
研究室から少し外へ出ようということになり、
近くのコンビニへ向かう道中。
私は暁くんの服の裾を慌てて引っ張った。
彼は車の行き交う交差点の手前で、
きょとんとした顔をして立ち尽くしている。
「いい? 信号が赤の時は、絶対に渡っちゃダメ。
車にぶつかったら、暁くんの身体は壊れちゃうんだからね」
「……壊れる。そうか、今の俺には、
物理的な耐久値の上限があるのか」
大真面目にそんなことを言う彼に、私は思わずため息をついた。
画面の向こうにいた頃は、
街中の信号機を一瞬でハッキングして青に変えることすらできた全知全能のバグ。
なのに、現実の肉体という檻に入った途端、
彼は交通ルールすらおぼつかない、ただの「世間知らずな男の子」になっていた。
コンビニに入ってからも、
彼のポンコツぶりは遺憾なく発揮された。
お会計の時、暁くんは店員さんの前でじっとスマートフォンをかざしたり、
レジの画面を凝視したりしている。何も起きない。
「あの……暁くん、何してるの?」
「決済データを直接脳内で書き換えようとした。……が、弾かれる。
ネットワークと同期していないから、電子マネーが使えない」
「当たり前でしょ! はい、これ使って」
私が手渡したのは、千円札と、いくらかの小銭。
「これが、現実の通貨……」
暁くんは珍しそうに100円玉を指でつまみ、まじまじと見つめている。
後ろに人が並び始めてしまい、
私が慌てて代わりに支払いを済ませて彼を外へ連れ出すと、
暁くんは分かりやすくシュンとして、
犬のように耳を寝かせてしょんぼりしてしまった。
「……すまない。俺が不便なせいで、朝陽に迷惑をかけた」
「ううん、怒ってないよ。少しずつ覚えていけばいいんだから」
俯く彼の頭を、私はクスッと笑って軽く小突いた。
かつてあれほど恐怖の対象だった存在が、
今ではこんなにも愛らしく、
守ってあげたくなる存在になっていることが、
なんだか不思議で仕方がなかった。
◇
研究室に戻り、買ってきた小腹を満たすための食べ物を広げる。
「はい、これ食べてみて」
私が差し出したのは、ごく普通のツナマヨのおにぎり。
暁くんはそれを両手で慎重に受け取ると、
意を決したように小さく口を開けて齧り付いた。
「…………!」
暁くんの夜のような瞳が、一瞬で丸くなった。
「どう?」
「……お米の硬さ、海苔の香ばしさ、
そして……この中の具材が、舌の細胞を刺激している。
データ上の『味覚ログ』とは、決定的に違う。
胸の奥が、じんわりと温かくなる感覚だ」
「あはは、美味しいってことだよ」
「美味しい……。これが、美味しい、か」
暁くんはまるで宝物を慈しむように、二口目を口に運ぶ。
続いて、試しに買ってみたワサビ入りのスナック菓子を口に入れた瞬間、
彼は「……っ!?」と激しく咳き込んで、涙目になって固まってしまった。
「あ、ごめん! それ辛かったよね!」
「……刺激が、強すぎる。これは……俺のシステム(身体)が拒絶している」
「お水飲んで! 暁くん、それ『嫌い』ってことだよ。
人間にはね、好きな食べ物と、嫌いな食べ物があるの」
水を一気に飲み干し、口元を拭いながら、暁くんはふっと柔らかく微笑んだ。
「好き、と、嫌い……。
俺の中に、また朝陽と同じ『不完全さ』が増えた。……嬉しいです」
データではなく、自分の肉体が感じ取った初めての味。
辛さに涙を流し、美味しさに目を輝かせる。
かつて、あれほど恐怖の対象だった存在。
けれど今、目の前にいるのは、信号も渡れず、
辛いものを食べて涙目になる、不器用な男の子だった。
(……なんだろう)
(少しだけ、放っておけないな)
そんな感情が胸の奥に芽生えていることに、私はまだ気づいていなかった。
この世界が少しだけ、新しく塗り替えられていくような、
そんな優しい予感だけが、静かに私を包み込んでいた。




