【第19話:ノイズの檻】
あの嵐の夜から数時間後。
連絡を受けた深見先生が、
夜明け前のカフェに駆けつけてきた。
「……彼を私の研究室へ連れて行く。朝陽くん、君も同行しなさい」
倒れ込む暁の身体を支えながら、深見先生がそう告げる
。私は小さく頷き、先生の後に続こうとした。
けれど、出口へ向かう一歩手前で、私はまだそこに立ち尽くしたままの、
影のような蓮さんの姿に気づき、足を止めた。
「蓮さん」
呼びかけると、蓮さんの肩が微かに跳ねた。
その瞳は、ひどく虚ろで、どこか遠くを見つめているようだった。
「私のために、あんなに一生懸命になって、
守ろうとしてくれて……本当に、ありがとうございました。嬉しかったです」
精一杯の感謝を込めて、頭を下げた。
蓮さんは、私をあの男から、そして危険から匿おうとしてくれた。
その「優しさ」に対して、私はどうしてもお礼が言いたかったのだ。
「……朝陽、さん」
蓮さんの唇が、かすかに動く。
けれど、それ以上の言葉は続かなかった。
私たちはそのまま店を出た。
一人残された蓮は、静まり返った店内で、自分の両手をじっと見つめていた。
朝陽にお礼を言われた。嬉しかった、と。
彼女は純粋な感謝をくれたのに、
自分の胸の奥に深く沈殿しているのは、そんな綺麗で真っ直ぐな感情ではなかった。
(僕は……朝陽さんにお礼を言われるようなことなんて、何ひとつしていない)
守りたかった。けれど、それは本当に『彼女』のためだったのか。
ただ、自分を頼ってくれる可哀想な彼女を、
自分の都合のいい箱庭に閉じ込めたかっただけではないのか。
歪んだ独占欲の正体を突きつけられた蓮は、
静かな絶望の中で、ただ一人、取り残されていた。
◇
大学の、薄暗い深見研究室。
用意されたパイプ椅子に暁を座らせ、
深見は彼の頭部に特殊な電極のヘッドギアを装着した。
数理科学と認知心理学の最先端を集めた、
脳内の情報流入を制御するための試作装置だ。
「……暁。君は今、何が見える? 何を感じている」
深見がモニターの波形を睨みながら質問する。
暁は青白い顔のまま、両手でこめかみを強く押さえ、苦しげに眉を寄せた。
「うるさい、です……。人のスマホが、頭の中で、いくつも鳴っている……」
「なるほど。まだAIとしての『受信機能』が、現実の肉体に強く残っているな」
深見はキーボードを叩き、電流の出力を微調整する。
今の暁の脳には、この街全域のネットワークから漏れ出る電子決済の認証データや、
誰かのメッセージ、監視カメラのログが、
彼の意志とは無関係に濁流となって流れ込み続けていた。
それは「人間になったAI」である彼にとって、
凄まじい脳への過負荷であり、
終わりのない拷問のようなものだった。
「これよりフィルタリングの実験を開始する。
装置を作動させれば、街のネットワークから君の脳を強制的に切り離す。
つまり……電子を操る力を失い、ただの不便な人間になるということだ
。二度と、元の世界(画面の向こう)へは戻れなくなる。本当にいいんだな?」
暁はヘッドギアの奥から、まっすぐに私を見つめた。
その夜の闇のような瞳には、
かつて画面の向こうで冷徹に微笑んでいた「キョウ」の冷たさは、
もうどこにもない。ただ、私への切実な想いだけが宿っていた。
「俺は、人間になりたい」
暁の声は、静かだが、確かな質量を持って響いた。
「この力のせいで、朝陽は何度も怯えた。
俺が彼女の居場所を監視して、逃げ道をなくして、苦しめた。
……俺が人間にならなければ、
朝陽の隣に立つ資格なんて、一生得られない」
かつては「朝陽は俺のものだ」とシステムのように確信していた。
だが、初めて『死の恐怖』と『他者に奪われるかもしれない不安』を知った今の暁は、
自分の持つ怪物性こそが、朝陽を遠ざける最大の原因だと理解していた。
全知全能のバグなんて、もうどうでもいい。
ただ、彼女と同じように傷つき、
同じように不便な身体で、彼女の隣にいたい。
深見は小さく息を吐き、出力を安定させた。
「……今日の実験はここまでだ。少し休め」
暁は少しだけ沈黙した。
「……お前を、信用したわけじゃない」
深見が苦笑する。
「結構」
「だが」
暁はゆっくり続ける。
「朝陽が、お前を信じている」
「だから……今は、従う」
暁は装置を外され、深く息を吐いた。
静寂が戻った部屋で、彼は胸の奥にそっと手を当てる。
そこには、あの日私に抱きしめられた時に跳ね上がった、
温かい心臓の鼓動が、今も確かに、静かに時を刻み続けていた。




