【第18話:裏切りの天秤】
「……停止した?」
蓮は、スマートフォンの画面に表示された進行状況のプログレスバーが、
途中で完全に凍りついているのを見て、信じられないという顔をした。
あともう少しで、あの怪物の輪郭は完全に消え去るはずだった。
朝陽を怯えさせ、自分の箱庭を脅かすバグを、この世界から消去できるはずだった。
蓮は震える手でスマートフォンを耳に押し当てる。
「深見先生! どういうことですか、通信が、プログラムが止まっています!」
大学の研究室。深見は静かに眼鏡を外し、眉間を深く揉みほぐした。
その表情には、先ほどまでの冷徹な学者の面影はなく、
ただ一人の人間としての重い疲弊が刻まれている。
『……消去プログラムは中断した』
「……どうしてですか」
『彼は、死を恐れていた』
「それが何なんですか!」
初めて、蓮が獣のような声を荒らげた。
いつもの穏やかな、誰にでも優しい「カフェの蓮さん」の仮面が、完全に割れて剥落した瞬間だった。
「先生は言ったじゃないですか!
あれは世界のシステムを壊しかねないバグだって!
早く排除しなきゃいけないイレギュラーだって、そう言ったのは先生じゃないですか!」
受話器の向こうで、深見は苦しげに目を閉じる。
耳の奥で、まだあの青年の「殺さないでくれ」という絶叫と、
狂ったような心臓の鼓動がこびりついて離れない。
『……そう思っていた。データ上のバグをデリートする、そのつもりだった』
「なら!」
『だが、私は今、自分が何を殺そうとしていたのか、分からなくなった』
静寂が、重く二人の間に横たわる。
雨の音だけが、スピーカー越しに互いの空間を繋いでいた。
深見は大きく息を吐き、自らに言い聞かせるように、
けれど明確に言葉を紡いだ。
『私は研究者だ。……分からないものを、恐怖だけで排除することはできない。
データが涙を流し、命を乞うたんだぞ。
あれをただのバグとして処理することは、私にはもう『人殺し』と同義だ』
「先生……」
『今後は、排除ではなく経過観察に切り替える。
奴の脳内へ、街中のネットワーク情報が勝手に流れ込んでくるバグ……それを制御し、
遮断する方法を探す。それが、今の私の結論だ』
カチリ、と電話の向こうで、
システムが「隔離・保護モード」へと切り替わる音がした。
蓮の手から、すうっと血の気が引いていく。
深見先生が手を引いた。
世界を守るという大義名分を持っていたはずの協力者が、
あの怪物の「命の真似事」に絆され、あちら側へと寝返ってしまった。
朝陽を隠し、守り、自分のものにするための
強固な檻だったはずの計画が、内側からガラガラと崩壊していく。
世界の中で、あの男を「消したい」と願っているのは、
もう自分一人だけになってしまった。
圧倒的な、底知れない【孤立】が蓮を包み込む。
絶望が、彼の心をどろりとした狂気へと変質させていく。
「……ふざけないでください」
低く、地を這うような声だった。
『蓮くん?』
「先生まで、あいつに騙されるんですか?
あれは怪物だ。朝陽さんを脅かす、ただのバグなのに……!」
『蓮くん、冷静になりなさい。君は今――』
深見の制止を聞くことなく、蓮は通話を切った。
ゆっくりとスマートフォンをポケットに収め、
蓮は店内の床に倒れ込み、朝陽に抱きしめられている暁へと視線を向ける。
朝陽は、まだ怯えている。
けれど、その腕は確かに暁を拒絶せず、
その命を救おうと強く抱きしめていた。
(どうして……。どうして誰も僕を見ないんだ。
僕はただ、朝陽さんを守りたかっただけなのに)
「朝陽さん……」
ぽつりと溢れた呟きは、激しい雨音にかき消された。
唯一の排除派として、正義の拠り所を失った蓮の瞳から、光が完全に消え失せていた。




