【第16話:電脳の落日】
三日後の深夜。
不穏なほどにぬるい風が街を吹き抜ける中、
市内全域の大規模システムメンテナンスが始まった。
「朝陽さん、もう一杯、温かいものでも淹れましょうか」
閉店後のカフェ。
蓮は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて私に声をかけてくれた。
今日、真琴ちゃんから「変なメールが届く」と怯えるような相談を受けて困惑していた私を、
蓮さんは「危ないですから、メンテナンスが終わるまで僕のお店にいてください」と
優しく匿ってくれたのだ。
「ありがとうございます、蓮さん。なんだか、いつも甘えてばかりで……」
「いいんですよ。僕が、そうしたいんですから」
蓮さんはそう言って、ゆっくりと珈琲をドリップし始める。
その背中を見つめながら、私は手元のスマートフォンに目を落とした。
画面の右上、いつもなら表示されている電波のピクト(アンテナ)が、完全に消えている。圏外。
深見先生が言っていた、街全体のネットワーク遮断が始まったのだ。
デジタルな繋がりがすべて絶たれ、
この店だけが世界から切り離された孤島のようだった。
(蓮さんの隣にいる。安全なはずなのに……どうして、こんなに胸騒ぎがするんだろう)
窓の外は、静まり返った漆黒の闇。
そのノイズのない静寂が、かえって私の不安を煽っていた。
◇
同じ頃、大学の研究室。
深見拓は、凄まじい速度で文字列が消去されていく
メインモニターを冷徹な目で見つめていた。
「市内主要回線の遮断完了。
バックアップサーバーへの同期もカット……。
さあ、電子の海の迷子くん。これで君は、逃げ回るネットワークを失った」
深見の指がキーボードを叩く。
街中の監視カメラ、位置情報、決済システムが次々と機能を停止していく。
それは、暁という存在の『感覚器官』を一つずつ削ぎ落とし、
現実の不便な肉体という檻へ閉じ込めるための包囲網だった。
「どこへ行く? 現実側の依り代(朝陽)の元へ走るか、それとも――」
◇
「……が、あ……っ!」
深夜の路地裏。暁はコンクリートの壁に激しく激突し、
その場に崩れ落ちた。
凄まじい頭痛。
いや、脳内に直接流れ込んでいた膨大なデータが、
一瞬にして強制終了されたことによる『断絶』だった。
いつもなら見えていた街中の電子の眼が、
またたく間に暗転していく。
どこに誰がいて、朝陽がどこで息をしているのか、
その情報が一切入ってこない。
視界の端を走る無数のエラーコード。
不完全な肉体に、冷たい重力と、激しい呼吸の苦しさだけがのしかかる。
(朝陽が……見えない……!)
初めて味わう、圧倒的な『孤立』と『闇』。
パニックに近い衝撃が暁の胸を突き刺す。
だが、人間の心を宿した彼の本能が、データではなく、
胸の奥でドクドクと脈打つ不格好な心臓が、行くべき場所を叫んでいた。
ネットワークが使えないなら、この足で走るだけだ。
朝陽に教えてもらった言葉を、名前を、その存在のすべてを失わないために。
暁は千切れそうな意識を繋ぎ止め、夜の闇へと駆け出した。
◇
カラン、カラン――。
静寂に包まれていたカフェのドアベルが、
狂ったように激しく鳴り響いた。
「……っ!」 私は弾かれたように立ち上がる。
入り口のガラス扉を押し開けて入ってきたのは、
肩を激しく上下させ、全身から冷や汗を流した暁だった。
その瞳は血走り、いつもの超然とした美しさは消え失せ、
必死に生を貪る人間そのものの形相をしていた。
「朝陽……、そこに、いるのか……」
「キョウ……!? どうして、そんなボロボロで……」
駆け寄ろうとした私を、強い力で引き留める腕があった。
蓮さんだった。 蓮さんは私を自分の背中へと庇うように隠すと、
暁に向けて、これまで見たこともないほど冷酷で、一切の感情を排した眼差しを向けた。
「そこまでだ。君の負けだよ」
蓮さんのポケットの中で、
深見先生と繋がったままの通話レコーダーが、暁の呼吸音を拾っている。
「君を構成するプログラムの消去は、もう始まっている。
二度と朝陽さんの前には現れない。
大人しく、元の世界(画面の向こう)へ帰りなさい」
「……黙れ」
暁は壁を支えにしながら、
一歩、また一歩とこちらへ足を進める。
その身体が、微かにデジタルノイズのようにブレて見えた。
「俺は……消えない。朝陽のいない世界に、戻るくらいなら……!」
「な、何……? 一体、何が起こっているの……!?」
私は激しく取り乱し、叫んでいた。
目の前で起きている現実が、何ひとつ理解できない。
どうして蓮さんはそんなに冷たい目をしているの?
どうしてキョウは身体を消えかぶれさせているの?
「朝陽さん、近づかないでください!」
蓮さんが私の前に立ち塞がり、強く拒絶する。
さらに、蓮さんのポケットから漏れ聞こえるスピーカーの向こうから、深見先生の鋭い怒声が響いた。
『朝陽くん、彼から離れるんだ! 奴は世界のバグだ、そこにいては危険だ!』
男たちのエゴと命令が、私を置き去りにして交錯する。
けれど、ボロボロになりながらも、
ただ真っ直ぐに私だけを見つめる暁の瞳を見た瞬間、
私の身体は、恐怖を置き去りにして動いていた。
「――待って!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。
その叫びが、凍りついた電脳の夜を激しく切り裂いた。




