【第15話:箱庭の鍵】
暁が去ったあとの店内には、
ただ激しい雨音だけが残されていた。
蓮はカウンターに両手をついたまま、
しばらく動くことができなかった。
爪がめり込むほど強く握りしめた拳が、怒りと、
それ以上に言葉にできない恐怖で震えている。
『お前のその優しさは、誰のためのものだ?』
『お前も、自分の都合のいい箱庭に、彼女を閉じ込めようとしている』
耳の奥で、あの怪物の、酷く静かで平坦な声がリフレインする。
否定したかった。
僕は彼女を守りたいだけだ、
怯える彼女を救いたいだけだと叫びたかった。
だが、その大義名分のメッキは、暁の鋭い正論によって完全に剥ぎ取られてしまっていた。
(そうだ。僕は、朝陽さんが怯えている姿を見て、どこかで安心していたんだ……)
思い知らされてしまった。
怯え、傷つき、現実の居場所を失いかけている朝陽が、
自分だけを頼りにして、自分の用意した助手席に座ってくれる。
その歪んだ関係性に、歪んだ優越感と満たされていく独占欲を覚えていたのは、
他でもない自分自身だった。
「……最低だな、僕は」
自嘲気密な呟きが、誰もいない空間に溶ける。
自分は正義の味方でも、純粋な献身者でもなかった。
ただの醜いエゴイストだ。
だが――。 蓮はゆっくりと顔を上げた。
窓ガラスに映る自分の瞳には、これまでになかった昏く昏い執着の炎が灯っていた。
(それでもいい)
一度芽吹いてしまった独占欲の種は、
もう引き抜くことなどできない。
あの日、僕の車の中でホッとしたように微笑んでくれた朝陽さんの現実を、
あの得体の知れないバグプログラムに明け渡すくらいなら、
どんなに醜いエゴだと言われようと構わない。
「朝陽さんを、本当に僕だけのものにできるなら……いい人なんかじゃ、いられなくていい」
蓮は迷いを捨てるようにスマートフォンを取り出すと、
登録したばかりの連絡先へと発信した。
コール音は二回もしないうちに途切れ、気だるげな学者の声が響く。
『……私だ。何か進展でもあったか?』
「深見先生」 蓮の声には、もう迷いも、以前のような戸惑いもなかった。
冷徹なまでの決意を孕んだ声に、電話の向こうの深見が一瞬息を呑むのが伝わる。
「例の大規模システムメンテナンスの計画、予定通り進めてください。
あいつを……キョウを、完全に現実から切り離して、排除しましょう」
『ほう。ずいぶんと急だな。何かあったのか?』
「あいつが、僕の前に現れました」
短い沈黙。深見の気配が、一気に研究者のそれへと尖るのが分かった。
『……接触してきたか。奴のコードがどこまで現実に定着しているか見極めるチャンスだな。
だが、現実側の依り代である彼女の安全はどうする?
ネットワークが遮断される時、奴が暴走して彼女を襲う危険性がある』
「朝陽さんは、僕が預かります」 蓮は迷わず言い放った。
「メンテナンスの当日、彼女には僕のところにいてもらいます。
外のノイズからも、あの男からも、完全に隔離された安全な場所に、僕が彼女を隠します。
だから先生は、あいつのコードを確実に消去してください」
電話の向こうで、深見が低く、くくくと笑う気配がした。
『物分かりが良いどころか、随分と積極的になったじゃないか。
……いいだろう。メンテナンスは三日後の深夜だ。
手筈通り、君は彼女を現実につなぎ止めておけ』
「ええ。よろしくお願いします」
通話を切ると、蓮は静かに息を吐いた。
三日後、この街の電波が死ぬ。
その時、朝陽を自分の箱庭へと閉じ込め、あの男を完全に消し去る。
外の雨は、さらに激しさを増していた。
蓮は入り口の鍵が閉まっていることをもう一度確かめると、
暗闇の中にぽつりと浮かぶカウンターを見つめた。
もう、優しいだけの「カフェの蓮さん」には戻れない。
引き返せない共犯関係の引き金を、彼は自らの指で引き絞った。




