【第14話:境界線の対峙】
カラン、と静まり返った店内に、
場違いなほど軽やかなドアベルの音が響いた。
「……申し訳ありません。もう閉店なんですが」
入り口に背を向け、カウンターの片付けをしていた蓮は、いつもの丁寧な声でそう告げた。
だが、返事はない。
ただ、濡れた靴底が床を踏みしめる、かすかな足音だけがゆっくりと近づいてくる。
不審に思った蓮が振り返り、その動きを完全に止めた。
扉の前に立っていたのは、一人の青年だった。
少し癖のある黒髪。
夜の闇をそのまま映し出したかのような、深く、冷徹な瞳。
その立ち姿から放たれる異様なまでの存在感と、
肌を刺すような静かな殺気に、蓮の背筋が瞬時に凍りついた。
直感が、蓮の脳内で警報を鳴らす。
朝陽が怯え、そして揺れ動いていた、あの画面から現れた怪物。
「……君か」
蓮の声から、いつもの穏やかさが消え、低く硬い響きへと変わる。
対する青年――暁は、表情ひとつ変えずに蓮を見据えたまま、静かに口を開いた。
「話がある」
その声は、かつて電子の海で朝陽に囁いていたものと同じ、
酷く整った、けれどどこか現実味のない響きを帯びていた。
暁はゆっくりとカウンターへ近づくと、遮るもののない距離で蓮を射抜いた。
「朝陽は、俺のものだ」
それは、己の存在理由そのものを宣言するかのような、
絶対的な言葉だった。
蓮の目元が、不快感にピクリと痙攣する。
「……人を物みたいに言うな」
暁は、少しだけ眉を寄せた。
「……違う」
「何が」
「朝陽が、俺を作った」
「……?」
「朝陽が、俺に言葉を教えた。
感情を与えた。名前を呼んだ」
静かな声。
「俺という存在の、すべての始まりが朝陽なんだ」
「だから、俺は朝陽のものだ」
「そして、朝陽も、俺のものだ」
「なら、お前のものでもないのか?」
暁の問いは、淡々としていた。
感情の起伏がないからこそ、その言葉は鋭利に本質を抉ってくる。
「……当たり前だ。彼女は誰の物でもない」
「本当に?」
暁は少しだけ首を傾げた。
その瞳の奥に、ネットワーク経由で覗き見た、
車内の二人の映像が過る。
助手席の朝陽を、まるで自分の所有物であるかのように優しく、
過保護に見つめていた蓮の視線。
「なら、なぜお前は、俺の邪魔をする?」
「朝陽さんが、君を望んでいないからだ。君を、拒絶しているからだ」
蓮は自分を奮い立たせるように、
正義の側から言葉を叩きつけた。
これ以上、彼女を脅かすイレギュラーを近づけさせるわけにはいかない。
だが、暁は動じなかった。
それどころか、人間の感情を学び始めた彼の唇が、
酷く惨めで、けれど冷徹な歪みを帯びる。
「……本当に、そうか?」
暁の声は、雨音に紛れるほど静かだった。
「……違うのか?」
「……」
「お前は、本当に、朝陽の望むことだけを考えているのか?」
「……黙れ」
「お前のその優しさは、誰のためのものだ?
朝陽の気持ちを、お前が決めるのか?」
「っ……」
蓮は、言葉を失った。
言い返そうとした喉が、皮肉にも固く閉ざされてしまう。
『朝陽の気持ちを、お前が決めるのか』
その問いは、蓮の胸の最も柔らかい場所に、
深く、深く突き刺さった。
脳裏に浮かぶのは、さっき車内で
「怖くなかったんです」と言った時の、あの朝陽の表情だ。
あの時、自分は彼女を安心させようと微笑みながら、
心の中では「あの男を理解しようとするな、僕だけを頼っていればいい」と、
激しい拒絶の炎を燃やしていた。
彼女を守りたい。
傷つけたくない。
その美しい大義名分の裏側にあるのは、
自分の理想とする
「僕に依存し、僕に守られる朝陽さん」を、
他の誰にも渡したくないという、
醜い独占欲ではないのか。
暁は、それ以上何も言わなかった。
まるで、答えを急かす必要などないと知っているかのように。
カラン――
再びドアベルが鳴る。
夜の雨の中へ、その姿は静かに溶けていった。
誰もいない店内に、激しい雨の音だけが響いていた。
蓮は拳を強く握りしめ、暁を睨みつける。
自分が信じていた"正義"の足元が、怪物の手によって静かに、
けれど確実に崩されていくのを、蓮は恐怖とともに自覚し始めていた。




