第9話 ジェシカの奮闘にクロエは冷ややか?
保健室でジェシカが、心配しそうに言った。
「ハル、少し顔色が良くないわ」
「一緒に帰りましょう」
保健室を出たあと、ジェシカは僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。
その横顔は、いつもよりずっと柔らかくて、どこか心配そうだった。
「今日は……送っていくわ。途中で倒れたら困るもの」
強気な言い方なのに、声は優しい。
僕はただ「うん」と頷くしかなかった。
家の前に着くと、玄関先で雪江がほっと息をついた。
「ハル……よかった。顔色、戻ってきたわね」
「ただいま、母さん」
ジェシカは背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。ジェシカ・ウィットモアです。
今日は……ハルの体調が心配で、家までお送りしました」
雪江は一瞬驚いたあと、ふわりと微笑んだ。
「まあ……なんて礼儀正しいの。
それに、とても綺麗な子ね……ハル、こんな素敵な子と一緒に帰ってきたの?」
「えっ……いや、その……」
僕は耳まで赤くなる。
ジェシカは慌てて手を振った。
「ち、違います! その……ただのクラスメイトで……!」
雪江はくすっと笑った。
「ふふ……ありがとうね、ジェシカちゃん。
よかったら、お茶でも飲んでいって?」
「えっ……あ、はい……お邪魔します……」
ジェシカが靴を脱ぎ、家に上がったその瞬間だった。
玄関の扉に違和感が走った。
いつもなら、
“わふっ!!”と勢いよく飛びついてくるはずのクロエ。
でも——今日は静かだった。
「……クロエ?」
呼んでも返事がない。
胸の奥がざわっと揺れる。
今日の夢界のことが頭をよぎる。
(まさか……また何か?)
ジェシカも不安そうに辺りを見回した。
「クロエ……どこ?」
リビングにもいない。
キッチンにもいない。
その時——雪江が小さく笑った。
「ハル。そこ」
「え?」
雪江が指さしたのは、玄関のドアの反対側。
そっと覗き込むと——いた。
小さな体を丸めて、
ドアの隙間からこちらをじーっと見ている。
ただ、その目がいつもと違った。
“知らない女の子が一緒にいる”
“ハルがちょっと元気ない”
“この子、敵か味方か判断中”
そんな気持ちが全部混ざったような、
不安げで、でも妙に鋭い瞳だった。
「クロエ……?」
僕がしゃがむと、クロエは固まったまま。
その時、ジェシカがそっと近づいた。
クロエは、後ろ足を一歩ひいた。
ジェシカもぴたっと止まる。
二人の間に、妙な緊張が走った。
僕が雪江を見ると、
雪江は口とお腹に手をあてて、今にも吹き出しそうだった。
「お母さん……」
助けを求めると、雪江は手のひらを向けて制した。
「ちょっ……と待って……ふふ……」
深呼吸して、ようやく言葉にした。
「これはね……クロエの“審査”よ」
ジェシカは固まった。
クロエはじーっとジェシカを見つめたまま、
まずは足元に視線を落とした。
その瞬間——
「ピクッ」
後ろ足が小さく跳ねる。
ジェシカの靴。
知らない匂い。
クロエの鼻先が、
ひくひくと小さく動く。
“この子……どんな子?”
クロエはゆっくりと視線を上げた。
足元。
膝。
腰。
そして胸元へ。
そのたびに、
耳がぴくっと動き、
しっぽがふわりと揺れる。
目が細くなったり、
ぱちっと丸くなったり。
まるで、
「ふむ……怪しくはない。でも油断はしない」
そう言っているみたいだった。
そして最後に、
クロエの視線がジェシカの顔に到達した瞬間——
クロエの耳が ぴんっ! と立つ。
鼻先が小さく震えた。
ジェシカはその鋭い視線に耐えきれず、
思わず背筋を伸ばし、
頬っぺたが「ピクッ」 と震えた。
「な、なんか……すごい見られてる……!」
雪江は口元を押さえながら、
こらえきれない笑みを浮かべた。
「ふふ……クロエの“全身チェック”よ。
気になる相手にしかしないの」
クロエは最後にもう一度、
足元から顔までを、すーっと見上げて——
「ピクッ」
今度は、しっぽが小さく跳ねた。
さっきまでの警戒が、
ほんの少しだけ緩んだ気がした。
ほんの少しだけ警戒を解いたくせに、
クロエはそれを誤魔化すみたいに、
ぷいっと顔をそらすと、
「ぱうっ」
小さく一声だけ鳴いた。
雪江が笑う。
「……どうやら、一次審査は合格みたいね」




