第8話 伝えきれない告白
教室のざわめきが、どこか遠くに感じられた。
ジェシカの青い瞳が僕を見つめているのに、
その視線の奥にある“優しさ”だけが、胸の奥で静かに響いていた。
——いずれ、全てが繋がる。
あの声。
あれはクロエの声じゃない。
でも、クロエの“波”と重なった瞬間にだけ届く、
どこか別の層からの囁き。
僕は席に座りながら、
胸の奥のざわめきが、まだ熱と冷たさを同時に抱えているのを感じていた。
(夢界の……ネムロ。あれはいったい何なんだ。)
黒い霧。
是正措置。
危険値。
そして、僕の心を“整えよう”とする冷たい力。
——心の乱れを確認。
あの声は、僕の感情を“監査”していた。
まるで、僕の心が世界にとって危険なものだと言わんばかりに。
でも、僕は——
僕のままでいたい。
だけど、その願いを口にした瞬間、
胸の奥がひゅっと縮んだ。
もし……“僕のままでいたい”って思うこと自体が、監査の対象になったら?
僕の気持ちが“危険”だと判断されたら?
クロエの声まで……曇らされてしまうのか?
考えただけで、背中が冷たくなる。
心の奥に、黒い霧がじわりと広がっていくようだった。
怖い……。
僕の心が、僕のものじゃなくなるのが……怖い。
その恐怖が喉に張りついて、息が浅くなる。
クロエは、確かに僕を守ろうとした。
黒い霧の中で、
必死に僕の名前を呼んでくれた。
「ハル、ハル、ハル!」
あの声の奥には、
“大好き”って気持ちが詰まっていた。
あの温かさは、間違いなくクロエのものだ。
(クロエ……君は、どこにいるの。)
窓の外では、さっきまでの黒い雲が嘘みたいに晴れ、
青空が広がっていた。
風が木々を揺らし、光が教室に差し込む。
ジェシカが、そっと僕の肩に触れた。
その指先は、驚くほど温かかった。
その温度が、胸の奥のざわめきを一瞬だけ押し返す。
「ハル……本当に、大丈夫?」
その声が胸に触れた瞬間、
また、あの“波”が揺れた。
——心の揺れ、安定。
——監査対象、経過観察へ移行。
(……まただ。)
ネムロの声が、遠くで響いた。
でもさっきよりも弱い。
ジェシカの優しさが、僕の心の波を静めているからだ。
僕の顔色を心配したジェシカは、
僕と一緒に保健室までついて来てくれた。
なぜか心が、くすぐったい。
保健室の扉を開けると、
静かな空気がふわりと流れ込んできた。
昼の光がやわらかく差し込み、
薬品の匂いよりも、どこか“生活の気配”が漂っている。
ベッドの白いシーツ。
壁に貼られた古いポスター。
そして——
美咲先生の指に貼られた三枚の絆創膏が、
白衣の袖の影で小さく揺れた。
そのささやかな揺れが、
なぜか僕の心を少しだけ落ち着かせた。
「どうした」
「やけに、おとなしいな」
「そんなにかしこまって」
「言いたいことがあるなら、気にせず言いなさい」
優しい声。
でも、胸の奥がぎゅっと縮む。
喉がひりつくほど乾いていた。
言葉を出そうとするたび、胸の奥がざわつく。
言ったら……どうなる?
また“監査”が動くのか?
ネムロが……僕の心を覗くのか?
ごっくん、と唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
怖い。
でも、言わなきゃいけない。
「先生……実は……」
声が震えた。
「新学期を迎える前、親の言うことに……ムカムカしてしまって。
宿題のこととか、休みの過ごし方とか……
“こうしなさい”って言われるたびに胸が熱くなって……
気づいたら、言い返してて……」
物にも八つ当たりした。
言葉にすると、余計に胸が重く苦しい。
「そんな自分が嫌で……でも止められなくて……」
美咲先生は、そっと息をついた。
その仕草はいつもの優しさそのままなのに、
次の言葉だけが、どこか別の温度をしていた。
「ハル。人の心ってね……ただの気持ちじゃなくて、
“波”みたいに揺れているの。
その揺れは、時の間にある夢界にも届くことがあるのよ」
声は柔らかい。
けれど、その奥に“決められた説明”のような響きがあった。
「揺れが大きくなりすぎると、
夢界の方で様子を見る仕組みが働くの。
逆に落ち着けば、その仕組みは静かになるわ」
まるで天気の話でもするみたいに穏やかだった。
「……本当は、あまり子どもに話すことじゃないんだけどね」
「夢界はね、誰かを罰したりはしないの。
ただ……心が壊れないように、
強すぎる記憶や感情を、少しだけ“ぼかす”ことがあるの」
ぼかす——
その言い方は優しいのに、内容は冷たかった。
「消すわけじゃないのよ。
ただ、揺れの原因になっている部分を、
そっと曇らせて……心を守ろうとするの」
守る、という言葉が逆に怖かった。
「ハル。
夢界は“あなたの幸せ”を選ぶわけじゃないの。
世界のバランスを保つために動いているだけ。
……それが、あの世界の決まりなの」
「先生もね、ハルと同じ年の頃に、同じ体験をしたのよ」
美咲先生は、少し懐かしむように目を細めた。
「その頃、先生にも小さな子犬がいてね。
まだ上手にごはんも食べられなくて……
だから毎日、ジャーキーを細かくしてあげていたの」
その語り口は、まるで昔の宝物をそっと取り出すみたいだった。
「ねえ、ハル。どうして君はクロエに優しいの?」
「うん……だってクロエはまだ小さくて、
僕がジャーキーをあげないと一人じゃ食べられないから」
「そうね。その気持ちは、とても素敵よ」
先生はやわらかく頷いた。
「じゃあもし、クロエが悪戯をしたら……ハルはどうする?」
「叱る」
「どうして?」
「……僕が叱ったあと、クロエはしょんぼりしてた。
僕もつらかった。
でも……叱らないと、クロエがみんなに嫌われちゃうかもしれないから」
美咲先生は、ふっと微笑んだ。
「ハル、よくできました。
それってね、とても大切なことなの。
優しさだけじゃなくて、
“その子がこれから生きていくために必要なこと”を
ちゃんと考えてあげている証拠よ」
先生は自分の胸に手を当てた。
「先生もね、あの時……
初めて“叱る”っていう優しさを知ったの」
美咲先生は、少し照れたように笑った。
「……なんだか、大人へ一歩だけ近づけた気がしたわ。
えらいでしょう?」
先生は「ゴホンっ……」と咳き込んだ。
「うん……」
「でも先生は、タバコ吸いすぎだと思う」
「こら!」
「先生をからかうな」
そのやり取りに、ジェシカがくすっと笑った。
つられて、美咲先生も笑った。
そして、僕の口元も自然とゆるんだ。
両手で口を押さえながら「ぷっ」と笑いをこらえるジェシカ。
“I can’t…”
(もうダメ……)
我慢しきれないのか、みるみる顔を赤くしていった。
そんなジェシカを見て、
僕と美咲先生は思わず吹き出した。
保健室には、やわらかな笑い声が広がっていた。
やがて、先生がコーヒーカップを静かに置く。
「カチャ」
その小さな音に合わせるように、胸の奥の黒いつかえが、ほんの一瞬だけ表に出た。
窓の外で風が揺れ、どこか遠くでクロエの気配が震えた。
——ハル。
——君の心は、君のものだよ。
その声だけが、唯一の温かさとして胸に残った。
でも——
記憶を曇らされることは、
僕が僕でなくなってしまうのと同じだった。
胸の奥がきゅっと痛む。
今まで楽しそうだったジェシカが、心配そうに覗き込む。
その瞳は、まるで僕の痛みを自分のものみたいに抱え込んでいた。
「ハル……泣きそうな顔してる」
「……してないよ」
でも、声が震えていた。
ジェシカは何も言わず、ただ僕のそばにいてくれた。
その沈黙は、優しさというより“決意”に近かった。
「ハル……」
彼女は小さく息を吸い、僕の手にそっと触れた。
「あなたが苦しむの……」
“I don't want to see it anymore.”
“Because I like you.”
(もう見たくないの。……だって、スキだから)
ハル「えっ」
「どんなことがあっても……私はあなたの味方よ」
その言葉が、胸の奥のざわめきを強く揺らした。
温かくて、強くて、そしてどこか危ういほどに真っ直ぐな思いだった。
その優しさが、僕の心の波を静かに整えていく。
その瞬間——遠くで、クロエの気配がふっと揺れた。
クロエ……聞こえるの?
僕は、僕のままでいたい。
記憶を、曇らせないでほしい。
僕の“幸せ”を、守りたい。
——ハル。
——君の心は、君のものだよ。
優しくて、強い声が返ってきた。
けれどその奥に、微かな焦りが混じっていた。
僕は、そっと目を閉じた。
夢界の監査。
ネムロの是正。
クロエの守り。
ジェシカの優しさ。
全部が、僕の心の奥で静かに重なり始めていた。
——いずれ、全てが繋がる。
その囁きが、今度は少しだけ温かく、
そして先を案じているように聞こえた。




