第7話 胸のざわめき、ただいま監視中(夢界の影)
あの日のざわめき。
父と母の言葉。
そして、クロエのぬくもり。
それらを胸に抱えたまま、
僕はゆっくりと“今”へ意識を戻した。
やしの葉と、胸に残るざわめきと、
虹色に光る葉っぱが、僕の肩の傷をそっと包み込んだ。
僕は活発だけど、普段はほとんど怪我なんてしない。
だから、肩にできたこの傷が自分でも不思議だった。
美咲先生が手を離すと、痛みはすっと引いていく。
「もう大丈夫よ、ハル」
その声は、どこか眠たげで優しかった。
……ふと見ると、白衣の袖口に小さな絆創膏が三枚。
(またコーヒーでもこぼしたんだろうか……)
美咲先生は、僕の視線に気づいたのか、袖をくいっと直した。
そんな小さな違和感すら、胸のざわめきは飲み込んでしまう。
あの大災害。
あの混乱。
クロエのぬくもり。
「それと…?」
(……何かが思い出せない。)
そして、目覚めたら“全部なかったこと”になっていた世界。
「先生……あの時、どこにいたの? 何が起きたの?」
喉まで出かかった言葉は、怖さで飲み込んだ。
美咲先生は僕の表情を見て、何かを察したように微笑む。
「ハル、あなたは優しい子よ。
どんな力があっても、心が正しければ大丈夫」
その言葉は温かかった。
でも胸の奥のざわめきは、まるで“澱み”のように残り続けていた。
窓の外では、静まり返った校庭に風が渦巻いて吹いていた。
保健室を出ると——
「あれ……?」
廊下はいつもより静かだった。
先生がコーヒーをこぼす音も、生徒の紙飛行機もない。
生徒たちの声も聞こえない。
ただ、廊下の端で自動販売機のあかりがぽつんと光っているだけだった。
(自販機の前には誰もいない……)
窓の外では黒い雲が渦を巻き、風が激しさを増していた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、空がざわついている。
胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。
——水瀬ハル。
頭の中に、冷たい声が響いた。
「えっ……?」
——心の乱れを確認。
——夢界の秩序に影響を及ぼす可能性あり。
足がすくむ。
廊下の床が波打つように見えた。
「誰なんだ!」
——我はネムロ。夢界を監る者。
その瞬間、自販機が 「ピッ……監査……」 と小さく鳴った。
——貴様の心の揺れを“危険値”と判断した。
「危険って何だよ!」
「僕は何もしてない!」
——否。
——貴様の“怒り”と“恐怖”が、世界を乱した。
「僕に話しかけるな!」
「先生はどこ!?
誰か……誰か助けて!」
ハルの動揺にお構いなく、冷たい声は続く。
——よって、是正措置を開始する。
「是正って何なんだ!」
「僕は悪いことなんてしていない!」
「措置って何なんだ!」
「無理やりするな!」
「やめろ!!」
視界がぐにゃりと歪み、黒い霧が廊下を飲み込んだ。
——抵抗は無意味。
(いや、意味あるだろ……)
「冗談じゃない」
黒い霧が胸の奥へ吸い込まれ、息が苦しくなる。
その時——
——ハル ハル ハル!
優しくて、温かくて、強い声。
「……クロエ?」
黒い霧が一瞬だけ揺れた。
その隙間に、黒い犬の姿が見えた気がした。
クロエなの?
伸ばした手は空をつかみ、霧はすっと消えた。
気がつくと、廊下に立っていた。
「あっ みんなの声が聞こえる」
(コーヒーの匂いがする……)
「美咲先生だ!」
霧も、声も消え、ただ廊下の真ん中に
みどりの葉っぱが一枚だけ残されていた。
胸の奥だけが、熱くて、そして冷たかった。
校庭の空は澄んだ青空に変わっていた。
風で木々が穏やかに揺れていた。
僕は教室を通り過ぎてしまった。
教室に戻ると、ジェシカが心配そうに僕を見つめる。
「ハル……今日、変よ。何かあったの?」
ジェシカの声は、
僕の心を静かにしてくれる。
僕にとってジェシカは、とても大きな存在だ。
でも答えられなかった。
ジェシカは一歩だけ近づき、声を落とす。
「ねえ、無理に言わなくてもいいの。でも……」
青い瞳が揺れる。
「あなたが苦しそうなの、見ていられないの」
その言葉が胸に刺さる。
言えば、何か得体のしれないものに巻き込んでしまう。
それが怖かった。
「……大丈夫だよ」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
ジェシカは僕の手元をそっと見つめ、
ほんの一瞬だけ指先が動いた。
触れたいのか、止めているのか、わからない。
「ハル。もし何かあったら……私に言って。どんなことでも」
その優しさが、逆に苦しい。
ジェシカの優しさに触れた瞬間、
胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけ静まった。
その震えに寄り添うように、
どこか遠くで同じ波が触れてきた。
胸の奥で、誰かが囁く。
——いずれ、全てが繋がる。
えっ……誰?
誰なの……?
あの赤い雲の向こうで、何かが僕を監視しているって、何!
胸の奥が、またざわつく。
あの声は、僕の心を“消そう”としていた。
でも——僕は僕のままでいたい。
そして、あの黒い犬は、間違いなくクロエだ。
クロエは僕の心に触れてきた。




