第6話 春の出会い — 黒い子犬と名前の誕生
日曜日の朝は、春の匂いがいつもより濃かった。
始業式の余韻がまだ胸に残っていて、
ハルの足取りは、ほんの少しだけ軽かった。
「……行ってきます」
玄関でそう言えた自分に、
ハルは少しだけ驚いていた。
家を出ると、
朝の光が道のアスファルトをやわらかく照らしていた。
風は穏やかで、どこか優しい。
その時だった。
「……ん?」
電柱の影で、何かが小さく動いた。
近づくと、
黒い毛玉のような子犬が、
段ボールの中で丸くなっていた。
細い尻尾が、かすかに揺れる。
「お前……ひとりなの?」
ハルがしゃがむと、
子犬はゆっくり顔を上げた。
つぶらな瞳が、まっすぐハルを見つめる。
次の瞬間——
子犬は、ハルの靴ひもにじゃれついた。
小さな前足でちょいちょいと触り、
ほどけた靴ひもをくわえて、
嬉しそうに引っ張る。
「ちょ、ちょっと……やめろよ……」
そう言いながらも、
ハルの口元は自然とゆるんでいた。
靴ひもをくわえたまま、
子犬は尻尾をぶんぶん振っている。
(……なんだよ。かわいいじゃん)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
最近ずっと重かった場所に、
小さな火が灯ったようだった。
ハルはそっと子犬を抱き上げた。
黒い毛はふわふわで、
体は驚くほど軽かった。
「……お前、どうしたんだよ。
こんなとこでさ」
子犬は答えない。
ただ、ハルの胸に顔をうずめて、
安心したように小さく息をついた。
その瞬間、
ハルの心の奥で、何かが静かにほどけた。
(……連れて帰るしか、ないよな)
春の光の中で、
ハルと黒い子犬は、
そっと寄り添うように歩き出した。
まるで、
ずっと前から決まっていた出会いのように。
玄関のドアが開く音に、ゆきえが振り返った。
「ハル、早かったのね……って、え?」
ハルの腕の中で、黒い子犬が小さく身じろぎした。
ふわふわの毛が揺れ、
つぶらな瞳が、ゆきえを見上げる。
「……拾った」
ハルは短く言った。
その声には、ほんの少し誇らしさと、
それを隠すような不安が混ざっていた。
ゆきえは思わず口元に手を当てた。
「まあ……こんな小さな子……」
子犬は、ハルの胸元に顔をうずめ、
安心したように小さく「くぅん」と鳴いた。
その様子に、ゆきえの表情がふっと緩む。
ハルの顔と子犬の顔が重なって見えたのか、
ゆきえはどこか嬉しそうだった。
「……寒かったでしょうね。
ハル、抱いてきてくれてありがとう」
ハルは照れたように目をそらした。
「べ、別に……ほっとけなかっただけだし」
そこへ、新聞を持ったしげるが顔を出した。
「お、どうしたんだい……って、わあ、かわいいなあ」
しげるはしゃがみ込み、
子犬にそっと指を差し出す。
子犬はその指をぺろりと舐め、
次の瞬間、ハルの靴ひもにじゃれついた。
「おい、またそれ……」
ハルが困ったように言うと、
しげるは優しく笑った。
「気に入られてるじゃないか。
ハルのこと、ちゃんとわかってるんだな」
ゆきえも、そっとハルの肩に手を置いた。
「この子……うちで預かってあげましょう。
しばらく様子を見て、飼い主さんを探して……
それでも見つからなかったら……ね?」
ハルは子犬を抱き直し、
小さくうなずいた。
「……うん」
その声は、
春の光みたいに柔らかかった。
子犬は尻尾をぶんぶん振りながら、
ハルの鼻をペロリと舐めた。
まるで、
「ここがいい」
と伝えているように。
ゆきえは、その様子を見てふっと笑った。
「ねえ、ハル。この子……“クロエ”って名前にしない?」
「えっ、なんで……?」
「だって、私“ゆきえ”でしょ。
なんだか響きが似てて、家族みたいでしょ?」
ゆきえは照れたように笑い、
子犬の頭をそっと撫でた。
しげるも新聞を脇に置き、
「いい名前だなあ。かわいいし、呼びやすい」
と優しくうなずいた。
ハルは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「……もっとカッコいい名前でもよかったのに」
そう言いながらも、
腕の中の子犬をぎゅっと抱きしめる。
子犬——クロエは、
ハルの胸に顔をうずめ、
安心したように小さく息をついた。
その温もりが、
ハルの胸のざわつきをそっと溶かしていく。
「……まあ、いっか。
クロエ、か……」
ハルが名前を口にした瞬間、
クロエは嬉しそうに尻尾を大きく振った。
しげるが笑う。
「ほら、ハル。もう自分の名前だってわかってるぞ」
ゆきえも微笑む。
「今日から、家族ね。クロエ」
その言葉に、
ハルの心は静かに落ち着いていった。
春の光が、
玄関いっぱいに広がっていた。
クロエを抱いたハルの表情は、
ここしばらく見せなかったほど柔らかかった。
ゆきえも、しげるも、
その姿を見て胸をなでおろす。
——けれど。
その温かい朝の裏で、
ハルの“反抗時代のつけ”は、
静かに、確実に動き始めていた。
あの日、
母に背を向け、
返事をせず、
怒りをぶつけ、
心の奥で荒れていた時間。
その乱れは、
ハルの知らないところで...
そして今、
クロエという光を手に入れたハルの前に、
暗い“影”が近づきはじめた。
春の風が、
玄関の隙間を通り過ぎた。
ハルは気づかない。
クロエも気づかない。
けれど、
家のどこかで——
小さな電子音が、
かすかに、ほんの一瞬だけ鳴った。
ピッ……
それは、
次への始まりを告げる
とても小さな合図だった。




