第26話 奇跡の5分間
午後の海は、静けさの奥に小さなざわめきを隠していた。
風が強まり、波がゆっくりと荒れはじめる。
遥斗たちは砂浜でくつろぎ、
クロエは波打ち際で足を濡らしながら、
ときどき空を見上げては、何かを感じ取るように尻尾を揺らしていた。
海は、確かに変わりはじめていた。
クロエはその変化を、誰よりも早く感じ取っていた。
耳が揺れ、鼻先が海の方へ向く。
その瞬間――
遠くから、かすかな悲鳴が風に乗って届いた。
クロエは走った。
砂を蹴り、一直線に監視台へ。
遥斗たちが驚いて追いかける。
「クロエ、どうしたの……!」
ジェシカが声を張り上げた。
クロエは振り返らない。
ただ、海を見つめていた。
その視線の先に――
母親と小さな子どもが、波に揉まれながら流されていた。
クロエは監視台の下まで来ると、ライフセーバーを見上げた。
吠えない。ただ、真剣な目で訴える。
その目を見た瞬間、ライフセーバーは息を呑んだ。
双眼鏡を覗いた瞬間、顔色が変わる。
「溺者2名、沖! 急げ!」
(時間がない)
笛が鳴り響き、周囲の空気が一気に緊迫する。
「まず子どもだ!」
ライフセーバーは一直線に沖へ向かった。
「子どもを確保!」
ライフセーバーが抱き上げた小さな身体は、ぐったりとしていた。
「急げ! 浜へ戻す!」
だが、その直後。
高い波が立ち上がる。
母親の姿が完全に消えた。
「くそっ……見失った!」
クロエの耳がぴくりと動いた。
風の向きが変わり、
波の音の奥に、かすかな母親の声が混じった。
――たすけて。
クロエは健志の袖を噛んで引っ張った。
「クロエ……まさか……行くのか……?」
健志の手は震えていた。
でも、クロエの目だけは、まったく迷っていなかった。
みんなで遊ぶために買っておいた、クロエ専用の浮き輪。
タケシはその意味を悟ったように、急いでクロエの体に装着する。
クロエは取っ手を口でしっかりくわえた。
その姿は、まるで——
「行くよ。あの人を助けたい」
そう静かに告げているようだった。
クロエは海へ飛び込んだ。
「クロエー!」
皆の声が遠くで聞こえる。
荒波の中へ。
波が高い。
風が強い。
体は小さい。
それでもクロエは、まっすぐ進んだ。
母親は、もう力尽きかけていた。
顔だけがなんとか水面に出ている状態。
クロエが近づくと、母親は震える手で浮き輪にしがみついた。
「……お願い……離れないで……」
クロエは吠えない。
ただ、必死に犬かきを続けた。
その小さな背中が、
荒れた海の中で、ひどく大きく見えた。
すぐに、ライフセーバーたちが次々と海へ飛び込み、
うねる波を切り裂くようにクロエと母親のもとへ向かった。
砂浜に戻った母親は、足が震えていた。
救助隊に支えられながらも、視線はクロエから離れない。
クロエは砂まみれで、息を切らしながらも、
尻尾だけはゆっくり揺れていた。
その姿を見た瞬間――
母親の表情が崩れた。
「……あなたが……助けてくれたの……?」
声は震え、涙が頬を伝う。
クロエは首をかしげ、
クンクンと小さな声を漏らし、
そっと一歩近づいた。
母親は膝から崩れ落ちるようにしてクロエを抱きしめた。
強く、でも壊れ物を扱うように優しく。
「ありがとう……ありがとう……
本当に……本当に……ありがとう……」
クロエの濡れた毛に、母親の涙が落ちる。
クロエは驚いたように瞬きをしたあと、
そっと母親の頬に鼻先を寄せた。
その仕草があまりにも優しくて、
周囲の大人たちまで涙を流していた。
誰からともなく、やさしい拍手がクロエを迎え入れた。
遥斗は胸の奥が熱くなりながら、
その光景を静かに見つめていた。
奇跡の5分間。
その中心にいたのは、
一匹の小さな英雄だった。




