19-3話 “Thank you”とペロリで始まる、思い出の夜
夏休みの始まりを告げる朝。
ジェシカは、玄関でクロエのリードを握りながら、
少し誇らしげに笑っていた。
「クロエ、今日はうちの家族に紹介するね」
その声に、クロエは“任せて”と言わんばかりに胸を張り、
黒い毛並みをふわりと揺らした。
まるで今日の主役が自分だと理解しているようだった。
ジェシカの家に着くと、
家族は一斉に、“So cute!”(かわいい!)と声を上げた。
ジェシカの母が、
“Make yourself at home, Coo-chan. We’re happy to have you here.”
(クーちゃん、ゆっくりしていってね。来てくれて嬉しいわ)
クロエはワン・ワン・ワン~(“Thank you. ”)と返事をした。
家族は一瞬、息を呑んだ。
“Did… did she just say thank you?”
(い、今「ありがとう」って言った!?)
その驚きの声に、ジェシカは思わず笑い、
クロエは誇らしげに胸を張った。
クロエはその歓声に尻尾をぶんぶん振り、
すぐに家の中心人物のように振る舞い始めた。
ジェシカの母は笑いながら言った。
“Jessica, she’s so clever. Can we keep her?”
(ジェシカ、この子ほんとに賢いわね。うちの子になる?)
“No, Mom. Chloe is part of Haru’s family.”
(だめだよ、お母さん。クロエはハルの家族なんだから)
ジェシカがそう言うと、クロエは誇らしげに鼻を鳴らした。
そのまま母の前へ歩いていくと、
ちょこんと座った。
“Chloe…? What are you doing…?”
(クロエ…? なにするの…?)
ころり。
もう一度、ころり。
最後は小さな体で“くるん”とでんぐり返し。
"What?"
(えっ?)
“No way… you’re too cute…”
(うそ…可愛すぎ…)
母がしゃがむと、クロエの瞳がキラリと揺れた。
そっと近づき、ほっぺに、ためらいもなく「ペロリ」。
その瞬間、母の肩がびくりと跳ね、
家族全員が息を呑んだ。
その沈黙を破ったのは父だった。
"Wow..."
(わぉ……)
父は思わず頬を押さえる。
"Come on, that's not fair..."
(おいおい、それは反則だろ……)
ジェシカの母が目をまん丸にした。
次の瞬間——
“Kyaaah! Coo-chan, you’re just too cute!”
(きゃあああああっ、クーちゃんっ……かわいすぎるっ!)
と叫びながら、クロエをぎゅうっと抱きしめた。
“I can’t handle this cuteness!”
(この可愛さ、無理!)
母の声は弾けるように明るく、
その姿にジェシカファミリーが笑い出す。
ジェシカは腕を組み、
まるで自分が褒められたみたいに
得意げな顔をしていた。
クロエがジェシカに近づき、
靴を“ぺちぺち”と叩いた。
まるで、
「主役は私ですよ」
と言わんばかりに。
夕方になると、ジェシカはクロエを連れて近所を散歩した。
夏の風が少し湿っていて、
クロエの黒い毛が夕陽を受けて金色に縁取られていた。
「クロエ、今日は楽しかった?」
クロエは振り返り、
“もちろん”と言うように尻尾をひと振りした。
その日の夜——
外では、夏の虫の声がかすかに響いていた。
ジェシカの部屋には、なんとも言えない光景が広がっていた。
布団の真ん中を堂々と占領するクロエ。
端っこで丸くなって寝るジェシカ。
「……クロエ、そこ私の場所なんだけど」
クロエは誇らしげに目を細めた。
ジェシカは「わかったわ」と苦笑しながら、
クロエの背中にそっと手を置いた。
「まあ、いいか。今日は特別だし」
その声に、クロエは満足げにジェシカのほっぺを「ペロリ」。
「クーちゃん……」
クロエはそっと視線をそらした。
「もう、可愛いんだから」
ジェシカにぎゅっと抱きしめられると、
クロエは前足をひょいと上げて降参ポーズ。
「ふふん。やっぱり私の方が賢いでしょ?」
ジェシカが得意げに胸を張る。
クロエは一瞬だけ首を傾げた。
まるで、
(はいはい。そういうことにしておきましょう)
と言いたげな顔だった。
「なによ、その顔」
ジェシカが笑う。
クロエはぺろりと舌を出した。
「もう!」
ジェシカも負けじと舌をぺろり。
するとクロエも真似するように、
もう一度ぺろり。
二人はしばらく見つめ合ったあと、
同時に顔をそむけた。
まるで、
どちらが上か譲らない子ども同士みたいだった。
「もう、クーちゃんたら……うふっ」
「クロエ、明日も一緒に遊ぼうね」
クロエは眠そうに目を細め、
ジェシカの手にそっと鼻先を寄せた。
その仕草があまりにも優しくて、
ジェシカは思わず微笑む。
「明日はみんなで海だよ。ね、クロエ」
クロエは「ワア〜」と大きなあくびをした。
(……おやすみ、ジェシカ)
そのまま力が抜けたように、
クロエは黒い瞳をそっと閉じる。
安心しきった体温が、
ジェシカの腕のなかでゆっくり沈んでいき、
やがて小さな寝息へと変わった。
まるで、明日の海を夢に描きながら
眠りへ落ちていくみたいだった。




