第2話 不思議な声は、誰の声
長い休みが終わるころ、僕はようやく“今の自分”に慣れ始めていた。
慣れたと言っても変な話で、まるで自分が二人いて、
一人が勝手に歩き回り、もう一人がそれを眺めているような感覚だった。
「遅刻するわよー!」
母の声で我に返る。時計は七時十三分を過ぎていた。
急いで着替え、顔を洗い、キッチンへ向かう。
最近、鏡を見ると
つい自分の顔をいじり回してしまう。
この不可解な癖は、
あのバンジージャンプで下を覗き込んだ時の、
足がすくむような恐怖が
まだ体に残っているせいだ。
——いわゆる“成長事件”の後遺症みたいなものだ。
テーブルにはいつものスープとパン、
そして——
鼻が曲がりそうな緑色の飲み物。
「……飲む気にならない」
そう思いながらも、
鼻をつまんで一気に飲み干した。
「何これ……」
「昨日考えた新しいジュースよ。効き目抜群よ!」
「何が入ってるの?」
「パセリ、キャベツ、レタス、そら豆、ほうれん草、ピーマン、成熟前のトマト、青虫の——」
「もういいよ!」
食後も胃が逆流しそうだった。
どうも僕には好きになれない味だ。
玄関を出ると、
庭でクロエが尻尾を振っていた。
「今日から学校なんだ。また帰ってきたら遊ぼうな」
クロエは少し心配そうに
僕を見上げていた。
その暖かい視線が、なぜか胸に残った。
いつもの角を曲がり、
公園を横切り、住宅街を抜けると学生たちが歩いていた。
合流した瞬間、
後ろから頭を小突かれた。
「この休み、何してたんだよ!」
振り返ると、背が高くてスマートな、
いかにもモテそうな男の子。
親友の石森タケシだ。
僕はとりあえず笑ってみせた。
「ちょっと病気でさ……熱が46度あって、頭痛とくしゃみと、 お腹の腸が動き回ってるような……」
(お腹の不調は、本当だが)
言いながら、自分でも“言いすぎた”と思った。
しかしタケシは真剣な顔で言った。
「それは大変だったな。顔、青いぞ。今にも吐きそうだぞ。
保健室行けよ。俺、先生に言っとくから」
「ありがとう……」
母の特製ジュースが僕を救ったらしい。
(タケシ、嘘ついてごめん)
学校は変わらず僕らを迎えてくれた。
記憶を頼りに保健室へ向かう。
廊下の窓から見える桜が、とても綺麗だ。
「トン、トン」
ノックしても返事はない。
静かにドアを開け、空いているベッドに座って待つ。
20分ほど経ったころ、足音が近づいてきた。
「ガラガラ」
ドアが開き、スラッとした女性が入ってきた。
右手にコーヒー、左手にタバコ。
サングラスにジーパン。
でも白衣を着ているので先生だとわかった。
「オッス!」
ちょっと太めの声。
「珍しいな悪ガキ。今日はどうした?」
「え、ぼ、僕……顔色が悪いみたいで……」
言い終わる前に、
先生はコーヒーを噴き出し、タバコをカップに落とした。
急に医者のような顔になり、僕の額に手を当てる。
(やっぱり、母の特製ジュースのせいだ)
「熱はないわね。食欲は?」
その声は不思議と安心する優しさがあった。
「一時間ほど横になってなさい。すぐ良くなるわ」
先生は「ちょっと出かけるわ」と言って出ていったが、なかなか戻らない。
気分も良くなってきたので、僕は教室に戻ることにした。
廊下に出た瞬間、重大なことに気づく。
「……僕のクラス、どこ?」
今年のクラス替えの紙を、
休み中にどこかへ失くしてしまったのだ。
しかも休みの間、ほとんど家に、こもっていたせいで、
誰に聞けばいいのかもわからない。
「よし、とにかく歩こう」
歩いていると、遠くに4〜5人の生徒が見えた。
近づくと、見慣れない一年生のグループだった。
途方に暮れていると、肩をトントンと叩かれた。
振り返ると、金色の髪に青い瞳の女の子。
ジェシカ?
(不思議と顔と名前が一致した)
「ハル、何してるの。保健室にいないし、先生も心配してたわ。
気分が良くなったなら教室に行くわよ」
その日本語はとても綺麗だった。
教室に入ると、30名ほどの生徒。
教壇には、ゆかり先生がいた。
「ハル、座りなさい」
中央の一番前の席が、二つ空いていた。
ジェシカが手で、「カモン」と合図する。
僕は、その後ろに座った。
後で知るが、僕は落ち着きがなく、
いわゆる“お茶目な問題児”。
ジェシカは優等生で、僕の“見張り役”だったらしい。
先生が授業を始める。
その瞬間——
地面がぐらりと揺れた。
「地震だ!」
教室がざわつく。
ガンッ!
天井の破片が足に直撃した。
「痛っ……!」
動けない。
周りを見ると、
ゆかり先生もジェシカも机の下に身を隠していた。
ジェシカが震える手で僕の方へ身を乗り出す。
「ハル、手……!」
僕は必死に足を引き抜こうとしたが、
痛みで意識が遠のく。
「もう……だめだ……ごめん、ジェシカ……」
その時——
「ウォーッ!」
(遠く離れた家にいるはずなのに)
(……聞こえる)
「クロエ……」
「来てくれたんだ……」
胸の奥が、じんわり温かくなった。
——まだ、終わりじゃない。
僕はもう一度、力を込めた。
「よしっ……!」
「動く……」
だけど僕は気絶した。




